連載
  杉と文学 第14回 『思い出す事など』 夏目漱石 1911年
文/ 石田紀佳
  (しばらくまんがは休止します。)
 
 

前に一度読みかけて、しかし気乗りがしなくてうっちゃていた。なのに今はいちいちよくわかるつもりで読み進んでいる。もしや、と思って、この作品が書かれたころの夏目漱石さんの年齢をみたら、わたしとほぼ同じ年だった。
知識の深さも、知能の高さも、感受性の鋭さも、自分とは比較にならない天才だが、この人が死にかけて、実際残された時間は6年に迫った年齢に今自分がいる。
おもしろく文が読めることはうれしいが、その内容は興味深いとはいえても、楽しいとはいえない。いや、いえるのか、楽しいってどういうことか。

仕事の打ち合わせにいく合間の電車の中でたぶん眉間にシワを寄せて読み、最寄り駅近くでページを閉じて、目をつむる。大きく息を吐きながら、仕事であう人のことを思って、今まで読んで感じていたことと違う世界にいくのか、その延長上でいくのか、とぼんやり悩む。数秒の間の心のたゆたい。できれば延長でいきたいと願う。
時計をみたら遅刻しそうなので、小走りすれば、瞬時に本のことは忘れて、一週間振りにあうかわいい人たちに「すみませんおくれてー」。
ひとときを過ごして、また電車でページを開くと
「秋の空浅黄に澄めり杉に斧」
と出て、スギダラのひとたちの顔が浮かぶ。

人気作家であった夏目漱石が大病をして「自由」になったときの心の動きを書きとめたのがこの作品。
精神というのは自由なものだとある哲学者がいったそうだ。
すなわち、自由でないものは精神ではないということ。

「豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心のはずまないときは決して豆を惹かなかったら商売にはならない。更に進んで、己の好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客を悉く謝絶したら猶の事商売にはならない。」
「芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とする様な場合ですら、その芸術が職業となる瞬間に於て、真の精神生活は既に汚されてしまうのは当然である。芸術家としての彼は己れに篤き作品を自然の気乗りで作り上げようとするのに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、売高の多いものを公けにしなくてはならぬからである」

どうなんだろうか。
生きていければそれでいいはずの私も、いつしか生きていくためといって、不必要に働いたりしている。不必要というのは適当な言葉でないかもしれないが、仕事について生き方について、きっぱりしていきたい。そんなふうに思っていたころにこの本を開いたのだ。

   
   
   
   
  ●<いしだ・のりか> フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著:「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦:http://xusamusi.blog121.fc2.com/
ソトコト10月号より「plants and hands 草木と手仕事」連載開始(エスケープルートという2色刷りページ内)
   
 
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