連載
  スギダラな一生/第23笑 「ここから始まった」
文/ 若杉浩一
  日向本発刊を記念して
 

一年前から辻さんが、日向市のまちづくりにまつわる色々な人の話しや出来事を整理して本に残そうという活動を地道に続けていた。僕はその中で、富高小学校のプログラムを一緒にやった程度で勿論全貌には関わっていない。しかし、その過程で、まちづくりや、駅に関わった皆さんとは、酒の席で、どんな事柄が起こって来たのかを間接的に聞くことがあった。勿論簡単ではなかった筈だし、色々な、際どい側面もあっただろうと推測は出来た。

しかし、辻さんから僕にも原稿の依頼があり、そのため途中で今まで出来上がった大量の原稿を読むことが出来た。僕は、何気なく読み始めたのだが、波瀾万丈物語の中でその場面場面で決して屈することなく、諦めず、格好わるく、しつこく未来を追い続ける、そして、それぞれの登場人物が、やがて大きな波を作っていく場面をドキドキしながら、そして感動しながら一気に読んだ。
まだ、原稿には空きがありそこに挿入されるべき人物や、内容が荒っぽく書かれていたが、それだけでも内容の濃さと迫力に圧倒された。

僕の役割は、森山さん、和田さん、海野さん、南雲さんに続き、富高小学校の出来事を僕なりの視点で書くことだった。しかし、こんな凄い中身、そして既に書かれていることを考えると、僕の役割なんて対したことがない、いや書くことさえ恥ずかしい気さえしたのだった。「もう既に充分ではないか、ここに僕がいなくたって、事は起きていただろうし、この流れは止まらなかったに違いない。」そう思った。
僕は南雲さんに「僕が書かなくても、既に出来ているじゃないですか、ほんとにいいんですか?」と伝えた。南雲さんは「若ちゃん、若ちゃんは、一企業人として、まちづくりと企業の関係を伝えられる唯一の存在だと思うよ、だから、そこを書いてくれよ、そして、現実に起こったことに躍動感を与えてくれよ」
「そうですね、わかりました、そんな感じで書きます」

しかし、いざ書き始めるとあまりにも沢山のことがあり、そして自分の人生に中で、初めての経験や感動そして素晴らしい人々に短期間に出会っている事を思い起こすと、なかなか筆が進まなかった。あれも、これも、そしてあんな感動があったこと、どれも減らせやしない。そして、それは僕らより長く関わった方々の方がもっとあるに違いない。よく減らせたもんだ、しかも、それでも充分すぎる内容なのだ。参ってしまうのである。

書きながらあらためて、僕は、なぜ日向に来たんだろうと思い起こした。それは杉との出会いがあり、そして南雲勝志との出会いがあったからだ。その二つの接点がここへ、いざなってくれたわけだ。宮崎に来て、僕は到底、企業の中では知り得ない、いや、デザイナーでも知り得ない実態としての社会というものを沢山体感できた。
企業、経済主義とは懸け離れた、子供達、まちづくりのメンバー、父兄や、先生方、そして多くの行政の方々の中で、利害を超えた豊かさを感じる事が出来た。「人は、社会の中で活かされている。そして豊かな社会を作ることは、社会の全ての人たちの願いであり、夢なのだ。何のための活動で、何のために、ものを生産するのか?」しかしそんな事が一番難しい。今現在、自分を見ている方が遥かに楽であり、組織に説明がつく。遠く離れた日常や、子供達そして地域を置き去りにし、今を見る事が、そこと連結されていると、勘違いしていた。いや、曖昧にしてきたのだろう。その事が体感として理解できた、肌身で感じる事が出来たのだ。

いつも集まる居酒屋で、黒木さんの情熱に満ちあふれ、市民の事、そして未来の事、仲間の事を語る姿や空気、音を感じて、僕は小さい頃の自分の境遇を懐かしく思っていた。僕の父は天草の小さな町の地方公務員だった。小さい頃から若い仲間や地元の仲間を集め、町の未来の事や現状について、夜遅く迄語り合っていた。よく酒も入り激論になり激しい側面もあった。僕はそんな音をいつも、いつも聞きながら過ごしていた。子供心にもよくも毎日話しがあるもんだと思っていた。親父は地域のために、色々な活動をやっていた。お陰で出世どころか、後輩にも追い抜かれ、小さな街の僻地へ左遷ばかりだった。それでも、しつこく続けていた。僕は、この報われない、一生懸命さを、半ば格好悪いと思っていた。
「もっと器用に生きればいいのに、僕は絶対そうなりたくない」とさえ思っていた。何故なら、母はその事でいつも苦労していたからだ。小さい街で権力にもの申すという事は大変な事だった。そんな親父が、定年を迎え、街にも、ようやく新しい風が吹こうとしていた時期に、周りの皆が父を町長にしようと推薦しているという話しを母から聞いた。
僕は親父に「ようやく、親父の時期が来たんけんが、責務と思って立てば、よかたい」と言った、しかし父は「ここで、俺がそんなもんになったら、それが目的になってしまうったい。おりゃ、これからもずっと只の魚釣りでよかと」と言うのである。まったく最後まで要領の悪い親父である。
そんな親父が最近「浩一、おりゃ、今、みんなと川を守るため、ダム工事の是非ば問うとるったい。あん、美しか川ば、残さないかん。」と熱っぽく語っていた
この対価にもならない、そして苦労やバッシングこそある対面の世界に何があるのかさえ理解出来なかった。そして日向に来て黒木さんや、和田さん、井上さん、中村さん、森山さん達に出会って、ようやくその謎が少し解けた気がした。

僕らが当たり前だと思っていた、世の中の表舞台に少しでも出て、自分を、製品を、デザインを、という経済、中央主義の歯車を回し続けて来た結果がもたらしたものは何だったんだろうか。そしてその後ろで、地域の、世の中には出る事さえなかろう、出るつもりもない、日常の人々が支えていたのだった。そして自分ですら、そういう親に支えられて来たのだ。
僕は、子供達を通じて、杉を通じて、そして日向を通じて、沢山の素敵な事が、足下に既に脈々と流れていて、そしてその支えの元で生きて来たことを教えられた。
随分時間がかかった。

先日、川上元美さんを宮崎に御案内した。今年の、日南での「史上最大のスギイベント」に先駆け、セミナーで講演してもらうためだった。その中で日向市駅を視察して商工会議所でこのプロジェクトに関わった宮崎のメンバーが揃い、川上さんにこのプロジェクトを一言ずつ説明をしてくれた。ほんの3分ぐらいずつではあるが、僕はその説明を聞きながら感動して思わず涙ぐんでしまった。
淡々と控えめに言葉を選びながら、自分の事や役割、そしてここで何が起こったかを語ってくれたのだ。しかしそれは誰が欠けても出来なかった、そして誰もが自分を捧げ、未来のために連携をして来た男達の言葉だった。ディテールも無ければ詳細だって無い。しかしその自信と希望に溢れた眼差しは一瞬にして、状況を知り得る程の迫力だった。 隣で川上さんもしきりに感動していた。連れて行った僕たちのチームの坂本でさえそうだった。

川上さんは言った。「僕も色々な地域開発やまちづくりのお手伝いをしてきました。しかし大抵はうまくいきません。モノづくりはデザイナーと行政と一部の生産者だけでは出来ないんです。それを支える人の繋がりや、仕組みが重要なんです。ここ宮崎にはそれが既に出来上がっている。こんなすばらしいことはありません」さすが、川上さんである。

篠原さんがきて、内藤さんが来て、佐々木さん、辻さんがいて、小野寺さん、南雲さんが来た。そしてそれに誘われて僕や千代ちゃんも来た。そこに川上元美さんも来た。何故日向にきたのか? 誘われたから? いや。
それは、この地に我々が言うデザインなんか乗り越えた、真っ当な日常をつくろうとする人達がいたからだろう、そして、そこに潜む情熱やチームワーク、彼らが創って来た年月に未来を感じたからに違いない。当たり前にある経済活動や現実、そしてその足下の地には沢山の経済とは関係のない日常が潜んでいた。どうやら、その繋がり、その地を掘り起こし、新しい木を植えていく、そして育て未来に繋ぐ、そんな「杉の種」が我々の心の中に眠っていたのだろう。
僕は、日向にまつわる皆さんから僕の「杉の種」を地に蒔き、水を与えて頂いた事にとても感謝している。
日向本発刊を記念して。

   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
   
 
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