連載
  続・つれづれ杉話 (隔月刊) 第6回 「手を使うことの意味」
文/写真 長町美和子
  杉について、モノづくりについて、デザインについて、日常の中で感じたモロモロを語るエッセイ。 
 
今月の一枚
  ※話の内容に関係なく適当な写真をアップするという身勝手なコーナーです。
  久々の作品。淡いブルーの麻糸と生成の綿の紬糸を平織りにして、途中、アクセントに3本取りの色糸を挟み込んでみました。糸の端を裏に引き込まずに表にチョロッとはみ出したままにしてあります。これは夏用の肩掛けバッグに。次は服地に挑戦する予定です!(完成がいつになるやら)
   
  色ちょろり
   
   
 
   
  手を使うことの意味
   
  不況の波を受けて(?)ヒマなのをよいことに久しぶりに織物にまた手を出している。織り巾を決めて経糸の本数を数え、整経台に向かってただひたすら無心に糸を繰る。機織りは機に糸をかけるまでが面倒だ。ふだん原稿を書いている時は言葉が耳に入ると邪魔になるので、ラジオや日本語の歌詞の入った曲はかけないのだが、こうした手仕事にはラジオがとてもよく似合う。2年前に結城紬の糸取りをしているおばあちゃんの取材に行った時も縁側にラジオが置いてあったっけ。私なんかは趣味でほんのちょっと織るだけだから糸も完成したものを取り寄せるだけだけど、昔の人はそれこそ家で蚕を飼い(桑を植え)、繭から真綿をとり、糸を引き、染め、織り、ようやく着るものをつくったわけだから、それにかかる総時間数を考えると気が遠くなる。

そんな折り、テレビで三重・熊野の棚田の風景を見て、400年以上前に積まれたという田の石積みに同じような感慨を持った。急な斜面を耕し、水を引き、石を運び、積み上げ、何度も何度も山を上り下りしたのだろう。山肌にへばりつくような小さな不定形の田の連なりでは、もちろん工作機械に頼ることも叶わず、今もすべてが手作業である。1日24時間しかないのは昔も今も同じことで、しかも昔は今よりもずっと寿命も短かったはず。その中で、食べること、着ること、住むこと、そのための道具をつくることにどれほど多くの手間と時間が費やされたことか。というか、それに費やされる時間こそが「生きること」だったんだろうなぁ。

農耕を中心に生きていくということは、意のままにならない自然との駆け引きを常にしていくということで、それによって人は自ずと我慢強さや楽天的な思考を身につけていった、と、誰かが本に書いていた。お天道様と雨ばかりは人の力ではどうにもならない。新しいことを試し、ダメだったらまた来年試してみる。粘り強くやってみる。でもあきらめることも肝心だ。苦労を笑い飛ばすおおらかさ、虫や鳥や他の生きものとの折り合い。「現代人が何かに付けキレやすくなったのは、土と離れたせいではないか」とその人は言う(誰か忘れてしまったが)。

そうかもしれん。ベランダの大きな今の集合住宅に移り住んでから、少しずつ野菜や花を育てるようになったが、最初のうちは盆栽の梅との付き合い方がわからずにイライラしたものだ。剪定の時期や葉の残し方、肥料のやり方、植え替えの仕方など、本と首っ引きで(その本を探すまでも大変で)研究するのだが、自分のやり方が合っているのか間違っているのか、季節が過ぎて次の花の時期にならないと答えが出ない。その結果を見て、何が違っていたのか考え、また別の方法を試す、その繰り返しで5年過ぎると「あぁどうやらこんな感じでいいみたいだ」と思えるようになってくる。トマトしかり、ベンジャミンしかり、シャコバサボテンしかり、いや、サボテンは5年目に油断して半分枯らしてしまった……何が悪かったんだろう、甘やかして水をやりすぎたか。ゴメンよ。

農作物にしろ、暮らしの道具にしろ、すべての人が何かしらのモノを手作業でつくっていた時代は、イチからモノをつくり出す苦労を皆が知っていた。効率よくいいものをつくるにはどうしたらよいのか、使いやすくするにはどんな工夫をしたらいいのか、誰もが考えて実行していたからこそ、人がつくったモノの価値をきちんと理解することができた。工程やモノの成り立ち、手間や苦労を理解できるということは、適正な価格で取り引きされることにもつながる(本当にいいものを欲しいと思ったら、それ相応の額がかかるのだ)。

つくる人と使う人が価値観を共有できている、という見えない信頼感があったからこそ、つくり手はどうしたらいいものができるか、喜んでもらえるのか真剣に考え、使い手はその心を読み取って大事に使い続けようとしたのだろう。「キミつくる人、ボク食べる人」てなセリフが昔何かのコマーシャルで流れていたような気がするが、生産者と消費者という分け方をせずに、誰もが少しずつ(何でもいいから)「つくる人」であれば世の中はもっとうまくいくに違いない。モノの質の向上とか便利さということだけじゃなくて、生活の中における創意工夫という意味でも、他者への思いやりという意味でも、我慢強さや包容力という意味でも。

そうそう、昨日の毎日新聞のコラムで「創造力はセンスがあれば育つってもんじゃない」と書かれていた。「創造力は自分の中にあるアイデアを手を使って具現化する過程で鍛えられ、その過程で人間そのものも鍛えられるのだ」と。そーだそーだ、とうなずきつつ、自分のセンスのなさを嘆きながら今日もまた糸と格闘する私です。
   
   
   
   
  ●<ながまち・みわこ> ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。
雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。
建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。
特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり。
   
 
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