連載
  続・つれづれ杉話 (隔月刊) 第11回 「人の力でできること」
文/写真 長町美和子
  杉について、モノづくりについて、デザインについて、日常の中で感じたモロモロを語るエッセイ。 
 
今月の一枚
  ※話の内容に関係なく適当な写真をアップするという身勝手なコーナーです。
  石田ノリさんに山椒の葉っぱをもらったのは3年前?
あれがこんなに大きくなりましたよ。高さ30センチくらいあるかな。
もう幹なんてゴツゴツしちゃって、すっかり「木」って感じ。
毎年、タケノコの季節、アゲハの幼虫の季節(笑)にお世話になってます。
 
   
   
   
 
   
  人の力でできること
   
  次号の『コンフォルト』(6月号。内田編集長が渾身の力を込めた?「木」の特集です)の取材で、今も斧やマサカリを使って木を切ったり削ったりしている人に出会った。「まーさかーり かーついだ きーんたろー♪」と歌詞が浮かんでくるが、マサカリなんていつの時代の道具?って思うじゃありませんか。そしたら、その人が「いや、ほんのちょっと前まで全部人の力で伐ってたんですよ」とおっしゃる。
   
  ほんのちょっと前、というのがどの程度のことなのか、原稿を書くに当たって確かめたくて調べてみたら、昭和20年代までは伐るのも皮を剥ぐのも山から運び出すのも、本当にすべて人の力で(ちょっと平らな場所は牛の力も借りて)行われていたのだという。面白いと思ったのは、木挽き職人と呼ばれる職人が地元の山だけでなく、日本各地の山を巡って、チームで仕事をしていた、という記述。
   
  彼らは伐採から運搬までの一連の作業を段取りよく、美しく仕上げることに誇りを持っており、丸太を載せるソリのような「木馬(きうま)」や、木馬を滑らせる「修羅(しゅら)」と呼ばれる滑り台の設置の仕方、そのコツなどが、年かさの職人から若い職人へと口頭で伝承されていったという。そうした大がかりな道具は、山に入って、その場にある小径木を利用してつくられた(天候の悪い時などにそうした準備作業を行う小屋まで自分たちで建ててしまう)。
   
  材木にする大径木は、斧で切り倒した後、その場で葉枯らしさせ、余計な枝を落とし、マサカリを使って剥皮し(皮は屋根葺き材に利用される)、そこで1〜2ヵ月かけて自然乾燥させる。その後、さらに玉切りもその場で行い、周囲の切り株を利用するなどして地面から浮かし、さらに乾燥させる。葉枯らしと自然乾燥を重ね、軽量化した木は人力でも扱いやすくなるわけだ。
   
  マサカリというのは斧の刃を大きく(横幅が広い)重くしたもので、皮を剥ぐために発達した形なのだ、と取材で会った大工さんが教えてくれた。「皮を剥ぐ、っていうのは、皮の周辺の余分な栄養を落として乾きやすくすることでもある」と。つまり、それも軽量化して運びやすくするための知恵なのだった。
   
  戦後の復興期、住宅の需要が増えただけでなく、元軍人に職を与える目的もあって植林が盛んに行われるようになり、同時に道路の整備やトラック輸送が可能になって、皆伐→再造林が主流になっていく。この頃になってチェーンソーが使われ出し、大量伐採、一度に輸送、機械による大量製材が当たり前になって、木挽き職人たちの仕事は廃れていく。同時に、どの技術や道具の作り方の伝承も絶えてしまった、と。
   
  産業革命じゃないが、「動力」が大きく変化する時、つくられるモノが大きく変化する。人の暮らしや、人そのものの生態が変わるわけじゃないのに、楽に・早く・大量にできる、とか、人が扱えないような大きさや重さのもの、固いものが加工できるようになったり、扱う素材自体が人工物になったりすると、身の回りのモノやデザインが大きく変わっていく。こう書いていくと、読んでいる人は自然な流れじゃないか、と思うかもしれない。発展とか発達というのはそういうもんだ、歴史の流れというのはそういうもんだ、と。でも、改めて考えてみると、「身の回りのモノ」というのは本来、人の暮らしに必要なモノであるわけで、それまで必要なものをできる範囲でつくってきたのが、できないこともできるようになってしまった途端、つくられるモノ自体が変化して、人の暮らしにそぐわないような、なんだか身の丈に合わない、環境に馴染まないモノが出来上がるようになる、というのはヘンなことだったんじゃないか。
   
  そこらへん、うまく説明できないけれど、最近、週末の夜にスカパーの時代劇チャンネルで池波正太郎アワーというのを見てて(すみません、時代劇好きなんです)、「鬼平犯科帳」のエンディングの光景をしみじみと美しいと思うのは何故かと考えたのだ。それは、町の風景、家並みや、通りに並ぶ道具、人の暮らしに使われている道具、着るもの、食べるもの、のれんとか屋台とか、蛇の目傘とか、そういうものすべてが、「その場で手に入る素材」と「人の力」だけでできているからじゃないだろうか。それをつくる時間と、消費する時間の折り合いもついていたということでもある。
   
  それに比べて自分の今の生活はどうよ。コンクリートのでっかいマンションの一室で、Macのシルバーのキーボードを叩いている脇に、エビアンのボトルが転がってて、足元に安物の電気ストーブなんかあったりして、あー汚い。
   
 
   
  *参考
  「web伝統林業民族(民俗のまちがい)資料室」 http://www.woodist.com/
  昔の仕事を思い出して描いた、元木挽き職人の挿絵がなかなか素晴らしいです。
   
   
   
   
  ●<ながまち・みわこ> ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。
雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。
建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。
特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり。
著書に 『鯨尺の法則』 『欲しかったモノ』 『天の虫 天の糸』(いずれもラトルズ刊)がある。
『つれづれ杉話』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_komachi.htm
恥ずかしながら、ブログをはじめてみました。http://tarazou-zakuro.seesaa.net/
   
 
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