連載
  続・つれづれ杉話 (隔月刊) 第13回 「所有したいと思う気持ち」
文/写真 長町美和子
  杉について、モノづくりについて、デザインについて、日常の中で感じたモロモロを語るエッセイ。 
 
今月の一枚
  ※話の内容に関係なく適当な写真をアップするという身勝手なコーナーです。
  さぁ、何がどうなっているんでしょう?
正解は「カゴにぴったり納まって眠っている鱈三」です。
このフィット具合がたまらん、と、カゴを移動させても目覚めず。
 
  カゴ入り息子
   
 
   
  所有したいと思う気持ち
   
  この間、駅のホームで電車を待ちながらさりげなくiPadを使っている人を見て、「いよいよ来たか」という気になった。発売日に店頭に行列ができたとか、手に入りにくい事態が生じているとか、ニュースでは見ていたものの、日常の風景の中でそれがいかにも自然に使われているシーンを目にするのが初めてだったから。これで書物の電子化が進む。わかっちゃいるけど、「あー本当なのね」って、どこか遠くから時代の流れを眺めている私。理解しようとするのがイヤなんだろうな。
   
  自分だって雑誌を買うことはまったくないし、調べ物もほとんどネットでしてるのだから、情報のデジタル化、オンライン化をもう少し歓迎してもいいはずなんだけど、読み物としての書籍がデジタル化するのはどうもしっくりこない。
   
  デジタルになれば紙も使わず、場所もとらず、ゴミも出ず、印刷にかかる費用もなくなる、流通にかかるコストもなくなる……つまり価格が安くなる分、今までだったら「そんなの売れませんよ」と鼻先で笑われておしまいだった内容の記事だって載せてもらえる機会が増えるかもしれないし、それだけ書き手としては仕事のチャンスも増える、ということなのかもしれない(そういう世界が好きで、その手の電子書籍に求められる書き手で、かつ世渡り上手な人に限られると思うけど)。今だって原稿をパソコンで書いてデータでやりとりしてるんだし、写真もデジタルで撮影してデータで渡していることが多いわけだから、いいじゃない、紙で読むかモニターで読むかだけの違いでしょ、と言われればそうかもしれん。だいたい、この『月刊杉』だってweb雑誌だしね!(笑) この間連載がweb本になって喜んでたくせに(笑)。
   
  でもなんだろね、同じ活字になっていても重みが違うような気がする、と言ったら笑われるだろうか。印刷されて、世の中に形あるものとして残るという緊張感、間違ったことを書いたら取り返しつかないぞという責任感、印刷工場から流通業者、書店へと人の手を渡って、「そのモノ」が最終的にお金と引き替えに読者の手に渡るという素朴なたしかさ。そのたしかさがもたらす重みがあると思うのだ。
   
  デジカメが登場した時も思ったけど、アナログとデジタルとでは1回のシャッターにかける思いの重さが違う、覚悟が違う。誰でも簡単に、見たまんまに撮れて、しかも撮った後で加工ができる。フィルム代を気にせずバシバシ撮れる、うまく撮れなかったものは消去できるから後に残らない(昔のカメラマンは、フィルムを1本まるまるカットせずにそのまま編集部に渡せる=無駄なミスカットがないことを誇りにしていたものだ)。
   
  逆に言えば、デジカメで撮影すると、撮る側にそういう緊張感がないから、撮られる側もリラックスできるし、日常のさりげない生活の雰囲気や、なんてことない自然な表情や光、フィルムだったらわざわざ撮らなかったかもしれないような意外性のある瞬間が撮れる、とも言える。一般の人の日常がブログで見られるようになったのもデジカメの普及があればこそ、だ。同じように『月刊杉』だから書けることだってある。つまり、そういうユルさが今、求められているのかな。
   
  そんなことをぐだぐだと考えていたら、精神科医の斎藤環さんが「デジタルの本=情報としての本」にはない「紙の本=物質としての本」の良さは、所有感があること、と書いていた。『本棚を見ればその人がわかる、というように、背表紙がずらりと並んだ本棚は一つの「表現」である』『「物質としての本」のもう一つの楽しみは「本と暮らす」ことだ。手に馴染んだ文庫本をどこにでも持ち込んでくり返し読む。そうした本の記憶はさまざまな場面の記憶と結びついて忘れがたい』。1冊の本と時間をかけて親しくつきあった思い出は、それを単に情報として取り入れた知識とは違う個人的な「エピソード記憶」となる。『かつての教養人とは、エピソード記憶としての知識が豊富な人だったのではないか、とふと思う』(毎日新聞コラム「時代の風」6月20日掲載より抜粋要約)
  「資料や情報としての本は電子書籍を選ぶだろうけど、人格の一部となるような大切な本は、紙という物質の形で所有し、その背表紙を眺めながら暮らしたい」。私も斎藤さんの意見に賛成!
   
  ところで、駅のホームでiPadを使う人を見た当日、あるパーティ会場で知り合いのカメラマンがiPadで自分の写真作品を周囲の人に見せているところに遭遇。「営業ツールにいいですね」と言ったら、彼は言った。
  営業のためのデータじゃなくて、これ自体がもう商品なんですよ。有名な写真家はもう無料で作品を配信しているんですよ。それを見て気に入った人が写真を一枚いくらで買う。音楽をデータで1曲ずつ買うのと同じです。これからはそういうのについていけないとダメですよ!」
   
  げぇ。(それって有名な写真家だからできることなんじゃないの? という言葉を飲み込む)。横にいた女性が、「気に入った写真を買って待ち受け画面にするとか、自分でプリントアウトして飾ってもいいですしね」と話を合わせたら、彼はまたもや「そーじゃなくて」と否定する。
  「使うんじゃなくて、このまま見て楽しむんですよ。データで持っていて、写真集をめくるようにスライドショーにして見る。ほら、こうやって端末を棚に置いて、フォトフレームみたいに飾ることもできる」
   
  そーかぁ? 写真ってそういうものか? その作家の写真を「欲しい!」「買っちゃおう!」と思う時の高揚した気分とか、どんなフレームに入れて、どこに飾ろうとか、ずっと前に買った写真集をふと思い出して夜更けに取り出して眺める時の気分とか、そういうのと、ピピッと購入ボタンをクリックして手に入れたデータを端末の中にファイルしておくのと同じだとは思いたくない。
   
  便利だから買う、必要だから買う、というレベルを超えた「買う」という行為は、きっとそのモノと自分だけの特別な関係を築きたいと思うところから始まるんだと思う。そのモノが、今確実に自分の手の中にある、という充足感。所有しているという安心感。そのモノが世の中にいくつ流通しているとしても、目の前にあるそれはたった一つの「自分のモノ」であり、常に自分の暮らしの一部としてそこにある。それが生まれた背景まで知りたい、つくった人の気持ちを理解したい、そのモノと自分との関わり方を自慢したい。そうなると、どうしても「あ、それ知ってる」とか「見た」「読んだ」とか、そういうことじゃなくて、形ある物質としての存在感「持ってる」が重要になってくると思うんだな。
   
  例えば書籍の場合、昔の活版印刷の活字の凹みも素敵だし、活版じゃなくても字の大きさ、紙の匂い、ページをめくる時の手触り、重み、装幀のデザイン、構成やレイアウトの美しさ、行間のバランス……書かれている内容はもちろん、それら全部をひっくるめて「本」なのだ、私にとって。それって、住宅も家具もプロダクツも洋服も車もみんな同じだと思う。ただ、本や写真は物質が存在しなくてもとりあえず用が足りる、というのが違うだけで。
   
  所有したいと思う気持ちって、つまりは愛なんだよねー。触れていたいとか、いっしょにいたいとか。そう思ってもらえるモノを世に生み出したいものだ、と思うわ。しみじみ。
   
   
 
   
   
  おまけ
 
   
   
   
   
  ●<ながまち・みわこ> ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。
雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。
建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。
特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり。
著書に 『鯨尺の法則』 『欲しかったモノ』 『天の虫 天の糸』(いずれもラトルズ刊)がある。
『つれづれ杉話』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_komachi.htm
恥ずかしながら、ブログをはじめてみました。http://tarazou-zakuro.seesaa.net/
   
 
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