特集 デザインサーベイから見える風景
  手考足思・建築探偵・路上観察・世間再生そして小さな物語の聞き手として(3)
文/写真  藤原惠洋
〜徹頭徹尾フィールドワークから創造的ワークショップへ〜  
 
 
  4. 世間再生 のつづき
   
   その後、偶然にも出身地の九州に戻ることとなった。1968年に開学された九州芸術工科大学へ異動したのが1993年。芸術工学部工業設計学科造形論の専任講師として赴いた。だが、帰りたくって九州を選んだわけではない。ある意味では明治期文豪の夏目漱石が書いた「坊ちゃん」の気分である。新天地を求めたら九州だった、というのが本音で、あくまでここも工業デザインの世界である。造形論とは何を論じることなのか。良い機会とばかりに、デザインの根源的な役割や近未来への可能性を誠実に探究してみたいと思っていた。
   
   一方、期待されたのはモノグラフ的なデザイン史や構成を基盤とする造形理論の授業であった。ドイツ1910年代?30年代のバウハウスを筆頭とする20世紀のデザインムーブメント(潮流)の歴史的意義、20世紀の生活やライフスタイルの改革に与えたデザインの力や構成といった基礎概念、これらをきちんと評価し授業を通し学生諸君に伝えること、であった。落ち着いた学者の雰囲気や学究スタイルが描かれていたはず、坊ちゃんはおおいに戸惑った。
   
   ちなみに通称「芸工大」は知る人ぞ知る、戦後生まれた国立大学唯一のデザイン系単科大学であった。文科省と地元の九州政財界が一緒になって創出したプロジェクト校とも言える。はたせるかな、この日本全国スギダラケ倶楽部の元祖・創始者・三賢人のうち、カリスマデザイナーの南雲さんを別格として、残るインハウスデザイナーの若杉浩一さん、千代田健一さんが本学OBでもあることから、おおそいつは凄いね、けっこうイケルじゃない、と思っていただければありがたい。しかしながらデザイン教育の根幹に戦前ドイツ・バウハウスの理念を据えたとしても、刻々と変貌を続ける日本社会の世間と娑婆を相手に取り組むにはさらなる叡智が求められる。
   
   小池新二初代学長こそが先駆者であったろう。「技術の人間化」という弁証法的テーゼを生み出し、芸術工学という概念を国会でも朗々と語り、ついには国立大学創出として社会に認知させていった立役者である。ちなみに、現在私はこの小池新二再評価研究を遂行しており、戦時中の昭和18年に上梓された小池著「汎美計画」が芸術工学概念創出の契機と見ており、こうした仮設を近日中に検証する予定である。あいくに私が千載一遇のチャンスを得てオランダ国立ライデン大学文学部に客員教授として赴任(2003年?2004年)していたさなか、九州芸術工科大学は九州大学との統合を経て、現在は九州大学大学院芸術工学研究院と位置づけ直されている。
   
   さて芸工着任時に戻ろう。フランスの思想家ジャン・ボードリヤール(1929?2007)が1970年に著した「消費社会の神話と構造」は当時の私の愛読書のひとつでもあった。大量消費時代にあって商品の意味は使用価値としてだけではなく、記号として立ち現れると説かれたことから着想を得て、私はデザイン観を拡張解釈していた。デザインという行為が消費を促すだけのものとは思えない。新たな役割のひとつに、デザインは個人や地域のブリコラージュ(器用仕事)としての新たな意味を受け持つことができると構想した。理論や設計図に基づきものを生み出すエンジニアリングとしてのデザインではなく、その場で手に入る土地固有のものを寄せ集めものを創り出す。雑多なものや情報などを集めて組み合わせ、本来の役割や用途とは違う文脈を新たに生み出しながらものや情報を生み出すこと。端切れから日用品を生み出す何気ない人々から情報システムを創出する技術者や、その場にあるものを上手に創意工夫してピンチを脱出するヒーロー、とばかり先導する者のことをブリコルールというが、内心私はそれに憧れていた。したたかな創造性と叡智が求められる。数多くのデザインサーベイの現場を通して各地に多士済々なブリコルールが息づくことに感動していたので、大量消費大量生産というグローバル化時代の先兵のような役割に甘んじるばかりがデザインではないだろうと、デザイン論を唱える自分自身の視点をあえて力づくで相対化することにつとめた。しかも、こうした作業をエンドユーザー(最終消費者)ともいえる市民参加型で進める。いわば「参加のデザイン」こそが持続可能な社会を構築する最善策だと構想するようになっていたので、これらを有機的に結びつけていく紐帯の役割をデザインに負わせる。黒子としての私がこうしたデザイン活動の下支えを果たせばいい。一方、デザインの楽しみや出来映えを参加者のアイデンティティ触発装置として使えば、より豊かなコミュニケーションを涵養できるだろうと考えた。そのために必要なしかけづくりを工夫し、ねばり強さが求められるアドボカシー(下支え)の人材育成をしたい、大学の研究室をそのための梁山泊にできないものかと独特の活動を構想しだした。社会全体を貫く価値観や相互関係が移ろうばかりの時代にあって、紐帯としてのデザインの可能性は無限に自己拡張しうるだろう、ブリコルールとしての坊ちゃんは新天地を期にそう考えていたのだ。
   
   ここから何を生み出したのか。1990年代当時、見事なばかりに道化とも言える役者ぶりでブリコルールを果たしていた。そのうえで何を到達目標として考えていたのか、あえて振り返れば「世間再生」を標榜したと言える。まがりなりにも仕事は加速度的に社会性を帯びていき、毎年のように身の程知らずのビッグプロジェクトをものにしていくことができた。
   
   すでに1970年代終わりから、まちあるきワークショップを契機とし、より包括的な住民参画型まちづくり活動の企画と実践を幅広く行っており、考えてみれば全国260自治体以上の現場で3200回以上に及ぶ参加型ワークショップの実践的ファシリテーターをつとめてきたことになる。じつはこの大半が、坊ちゃん時代以降のことである。きわめて意図的に参加型合意形成現場を構想することで、私自身が持っていたデザイン観を徹底相対化し、そこから新たにブリコルールとしてオルタナティブなデザインを紡ぎ出していくこと、私の社会的使命がむくむくと育ちつつあることを自覚しだしている。そこから住民、行政、企業、非営利組織をむすぶソーシャル・インクルージング(社会的包括活動)が必要を高めていったため、合意形成、政策形成、人材育成の研修プログラムの創出や求めに応じた指導とアドバイスを各地へ展開するようになった。大忙しの坊ちゃん、となっていくのである。以下、主要な研究委嘱事業を記してみたい。
   
 
1992年〜1995年 東京都世田谷美術館が歴史上、最初の本格的な住民参加型美術館ワークショップを企画開催。伝説の「建築意匠学入門」であるが、企画立案・テーマ設定を通し、みずから講師をつめていった。初回「駅舎」には100名以上の参加者が詰めかけ騒然となった。建築系テーマの新鮮さも加え、以降全国の美術館に波及していった。
   
1993年 山口県参加のデザインワークショップ。以降、山口県では県内各地の多彩な市民参加型まちづくり事業に藤原主導によるワークショップ手法がもたらされることなる。
   
1994〜1999年 北九州市河川局委嘱の地元小学生参加型による池づくり(ビオトープ)川づくりワークショップ。文科省による総合学習まちづくり学習の先導モデルとして高く評価された。
   
1994年〜1998年 北九州市職員研修所政策形成能力研修講師として市民参加型ワークショップを実践的に展開。
   
1995年 第2回わくわくワークショップ(全国市民参加型まちづくり活動団体の交流大会)北九州大会実行委員長。全国各地で展開しつつある市民参加型まちづくり人材の交流拠点として開催され、人材育成、情報交流、新たな市民参加の機運醸成等、数多くの成果を発揮していった。これを機に、北九州市においても市民参加型まちづくりプロジェクトが激増。さらにワークショップの運営達人ファシリテーターをめざす人材、手法の獲得に期待する人材などが激増し、ファシリテーョンという社会的概念創出へ大きな影響を与えていった。
   
1996年 福岡県民文化祭招待公演けんみん創作劇場「天の滴、月の樹にすくう」作・脚色・演出・総合プロデュース。前年度が第三舞台主宰の鴻上尚史によるプロデュースであったが、実際にはこの県民参加型演劇ワークショップが九州地域に広く参加型演劇づくりを促す先導事例となり、芸術文化領域では新聞紙上や社会的に高く評価された。
 
  1996年 福岡県八女市八幡校区 公民館にて参加型話し合いと合意形成の展開
   
 
  1996年 福岡県八女市八幡校区 いつしか子どもたちまでもが矜恃(プライド)を自分たちの視点と言葉で伝え出していく
   
1996〜1997年 九州初の徹底市民参加型ワークショップによる大野城市都市計画マスタープラン策定を遂行。九州各地の自治体からの視察やワンポイントお試し参加、コンサルタントや都市計画、環境デザイン関連のプロの研修参加(まったく無償ですべて受け入れた)が相次ぎ、劇的な参加型合意形成の実践とその可能性に感動した面々が各地での取り組みに波及させたことで知られる。
   
1998年 福岡県大木町福祉のまちづくり計画策定ワークショップを実践。このワークショップにも各地からの視察者が相次ぎ、この頃から数多くの市町村において住民参加型ワークショップ形式によるまちづくり、都市計画、都市公園、道路、河川、福祉、環境、地方分権、里親政策、農業政策、同和政策、公民館活動活性化、男女共同参画、学校施設のデザイン、公共施設の再生、といったじつに幅広い住民参加型政策策定の現場に招聘されてのワークショップ企画運営とファシリテーター業務が展開。東奔西走の日々が続いていった。
   
1998年〜1999年 山口県周南地域の市町村合併による新市総合計画策定。多テーマに基づく住民参加型ワークショップ手法を用いた合意形成プロセスを生み出しその後の「周南市」創出に貢献した。この手法は、藤原惠洋研究室指導下のコンサルタントとして当時のさくら総合研究所が修得、効果的な市町村合併ワークショップ手法として「西東京市」樹立時にも援用されたが、それ以降も幅広く普遍性を発揮している。
   
1999年 八女市八幡校区みずから考えみずからつくる地域振興計画策定、めだか塾(塾長就任)・八幡木鶏書院(亭主就任)開設。一地域の一小学校校区の住民参加型地域づくりの企画運営と実践の現場であったが、ローカリティの中に普遍的な考え方と実践手法、そして実際の成功体験と効果をもたらしたいと珠玉の手法化につとめた結果、八女市のみならず福岡県における先鞭事例となっていき、ここから平成16年度国交省まちづくり功労者賞、平成16年度福岡県美しいまちづくり大賞まちづくり貢献賞等を受賞することとなった。同塾は現在も続行中、拠点の八幡木鶏書院も現存し、福岡市南区西高宮校区との都市・農村交流拠点として活用中である。
 
  1996年 福岡県八女市八幡校区 むらさろき(村歩き)ワークショップでたからものを探しだし評価し地域づくりのシナリオへ載せていく
   
1999年〜2000年 山口県柳井市総合計画策定における総市民参加型ワークショップ形式による策定の実践。藤原惠洋研究室にとっては初めての総合計画策定への参画であった。
   
2000年〜2002年 熊本県天草地域の市町村合併コーディネーター。住民参加型ワークショップ手法を用いた新市建設計画策定を射程に入れた合併意見交換会を各地で数多く実践、そこから「天草市」の誕生へ貢献していった。
   
   さて、その後、私は2003年?04年にかけ、文科省在外研究員としてオランダ国立ライデン大学客員教授への長期出張を果たすこととなった。これは建築史学の研究者としてのチャンスであっため、いったん藤原惠洋研究室における以上の活動を閉店休業とせざるをえない。研究室を母体とした「福岡ワークショップデザイン研究会」が活動の中心軸となっていたが、10名内外のスタッフはそれぞれのれん分け状態で各地へ活躍の場を広げていくこととなった。
   
   創設された福岡市NPO・市民ボランティア交流センター「あすみん」の初代センター長となった吉田まりえさん、放浪の詩人・画家佐藤渓のコレクションで知られる由布院美術館の支配人となった行重礼晃くん、鳥取大学地域学部芸術文化センター准教授の五島朋子さん、厚生省大臣官房局の秋葉美知子さん、NPO日本冒険遊び場づくり協会事務局長をつとめた古賀久貴くん、写真家の落田伸哉くん。ドイツ・ベルリンで舞踏家となった山下真智子さん、お寺の坊守さんになった池田裕美さん、由布院駅アートホールのマネージャーをしている恒吉美智子さん、などなど。もっと活躍している教え子は数多く領域や専門性がじつに多彩である。
   
   オランダからの帰国後、もう私の出る幕でもないだろうといったんは身を引いた。しかしその後、求めに応じて、こうした後進たちを支える形で緩やかに活動を再開し、徐々に勘どころを取り戻す形で、結局は出番が増えてしまい、現在に至っている。
   
   これらの足跡を自分で振り返りながらいくつかのことに気づく。主要なものをあらためてカテゴリーで仕分けすれば、まちづくり、環境づくり、都市計画マスタープラン、福祉マスタープラン、演劇、総合計画、市町村合併に基づく新市計画、と自分でも驚くほど幅広い。ご縁をいただければ緊急車両のような勢いで飛び出して行った。じつに多彩なまちやむらでおもちゃ箱のような雑貨屋を開き、御用聞きのようなローアングルで取り組んできたことになる。自転車操業と言えばそれまでだが、研究室のスタッフもよく動いた。この頃、ようやく自分でも活動していることの大枠が見えてくるようになり、これらの活動を包括して当時の大学案内には自分の研究室を「参画型共生社会の実現へ向けて新たな価値創出活動を展開します」と紹介している。
   
   元来、私の専攻の表看板は日本近代建築史学であり、明治大正昭和の歴史的建造物の調査・分析・評価、さらには保存・再生・修復をもっぱらとしてきた。しかし今や、看板を掛け替える事態となっており、予測不可能なテーマのるつぼと言える「世間再生」のためには多彩な現場を鳥瞰する包括的な視野が必要であり、同時に御用聞きにも似た細やかな気配りと虫瞰的な活動が求められる。あえて言えば、こうした複眼的な観点を内包しながら、これまでの計画行為や政策形成を相対化すると同時に自分自身の社会観や価値観を相対化しながら、はじめてブリコルールとして振る舞うことができるようになる。すでに私は若い頃に夢見た建築家への憧憬を忘れようとしていたが、考えてみれば相対化の果てに辿り着こうとしている地平は、きわめてクリエイティブな場だと思えてしかたがない。対象が建築や構築物に閉じることなく、より開かれた市民社会そのものであることが特徴であろう。
   
   畏友で盟友の藤田洋三さんが彼の人生まるごと掛けて創出した「世間遺産」概念にふと気づいた際、以下のように振り返っている。
   台頭してきた世界遺産は世界的な資産であるのに対し、世間遺産が重要なのは個人の判断を重視しているからだ、と。そこには無名だけれど風土を感じさせる営みの風景や暮らしの痕跡が残されており、つい触りたくなる。子どもの手にように優しく柔らかく触れてみせること。それが世間遺産に対する再評価の契機なのだと。
   
 
   
  5.小さな物語の聞き手として 〜デザインサーベイの可能性〜
   
   私は指導下の学生・大学院生たちにゼミを通しては、観察→洞察→省察→創造、の循環を説き続けている。これらは、私が足思手考、建築探偵、路上観察、そして世間再生へ至る私自身の30年プログラムを経て、ようやくそれらしく自家薬籠中のものとして育むパラダイムそのものである。しかしながら現在の社会は、この循環を担保することがきわめて困難になっており、私たちは再々にわたり何から始めたらいいのか、真剣に問い直さざるをえない。
   
   そこで私は、世間再生に至る最善の道筋は、地域社会をかたちづくる3つのキーワード「文脈」「矜持」「紐帯」を真摯に問い直すことからではないか、と近年論じている。すなわち「文脈」とは、この地がどこから来てどこへ行こうとしているのかをあらためて問い直す生活者の思想と哲学の根幹である。「矜持」とは、相対化を経て再認識できる誇りや誉れやシビックプライドであり、地域社会全体の自尊感情を育てる契機となる。そして「紐帯」は愚直なまでに支え合い分かち合い助け合う根源の営みであり、カタカナで言うコミュニティやネットワークをもっとふくよかに育てていった場合の絆そのものと理解していく。
   
   東日本大震災による被災地と被災者支援を、可及的速やかに私たちは進めていく必要がある。その際に忘れられがちだが、支援活動こそは、より創造的に進められるべきである。ではここで言う創造的とはどのような具体的作業を言うのか。
   支援を必要とする被災者の多くは、みずから、して欲しい、支えて欲しい、助けて欲しい、と思っていても、けっして活動や行動を指示する細部へ求めはしないだろう。他者への助けや救いの要求や信号はそれだけでも知恵や力がいる。はたして被災者はそれだけの余裕があるだろうか。
   一方、指示がなければ動かない、私の近辺の学生世代を見ていても、なにも言わなければ佇むばかりという姿に困惑し辟易してしまう。他者への想像力の枯渇状態も少なくない。両者の隔絶は際立つだろう。しかしそこで諦めるのはまだ早い。
   
   私の妄想に過ぎないかもしれないが、地域再生が具体的な作業として始まる頃、私はデザイナーたちとともに現地を歩きながら被災の痕跡を緩やかにデザインサーベイしていきたい。地震と津波が襲った沿岸部は根こそぎ町を失い、環境を破壊されている。そこで何を見つめ、何を描き、何を語ればいいのだろうか。
   瓦礫の中から被災地の文脈を再び辿りたい。そこから無数の矜恃を探し出したい。これは何なのですかと問いかけることで、いつかは被災者がぽつりぽつりと語り出してくれる時が来るかもしれない。たとえ悲しみに口を閉ざすかたがたも多いとしても、ここで浮上する小さな物語は被災者の生きる糧ともなり、被災者と私たちの相互を結びつけ、再生活動のささやかだが持続可能なエネルギー源になっていくことだろう。こうした作業が被災者同士の、そして被災者と私たちの紐帯を結び直すことになるのではないだろうか。
   愚直だが、このような観察行為が地域社会に少しずつ浸潤していくことが、他者によるデザインサーベイの本来の意義と役割であったはずだ。
   
   かつて考現学を創案した今和次郎も、1923年(大正12年)9月1日に襲った関東大震災の被災地東京の瓦礫の中から二つのことを成し遂げている。ひとつは瓦礫の中から材料や素材を調達しいちはやく店舗を人力で建て直していったこと。この活動をみずから「バラック装飾社」と名乗り、活動を幅広く展開していった。他方は、こうした復興を経ながら蘇っていく東京の下町や銀座といった街角で、当時最新の風俗や流行観察を展開していったこと。まさにブリコルールそのものと言える活動を震災後に展開している。
   
   私もまたブリコルールを生きたいと願っている。被災そのものを、手にしたサーベイ用具を使いながら、こころとからだにしっかりと刻み込んでいこうとするとき、遠くで私たちを見つめる被災者の姿が必ずあるはずだ。どのような視線だろうか。熱いか冷たいか、傍観か凝視か。しかし私たちはこうした視線を感じ取りながらも、復興と地域再生に向け新たな価値創出の契機を提供したいと願いながら観察行為を成立させなければならない。そして可能なら、少しずつ歩を近づけ、いつしか被災者のかたがたとともに現場の物語を再生していく参加の場づくり。これが創造的ワークショップにほかならない。そしてワークショップの企画と運営に携わる私たちは、その時のためにこそ他者への想像力を十分に鍛えておくしかあるまい。私が近年も展開している多彩な地域づくりの現場で生み出す創造的ワークショップのすべてが、こうした私流のデザイン哲学に貫かれていることをあらためてお伝えしたい。そしてそれらは貴スギダラ倶楽部の主旨と活動内容に強く共振しあうことに内心驚いている。私が貴倶楽部に入会したのは共振が嬉しかったから、である。(研究室活動の詳細はHPブログでご覧下さい)
   
   
   
   
  ●<ふじわら・けいよう> 
工学博士・建築史家・まちづくりオルガナイザー・九州大学大学院芸術工学研究院教授・日本全国スギダラ倶楽部北部九州会員
九州大学研究者情報 HP http://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K002281/index.html
E-mail keiyo@design.kyushu-u.ac.jp 
藤原惠洋研究室 http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~keiyolab/
ブログ http://keiyo-labo.dreamlog.jp/
   
 
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