短期連載
  領域を超えて 〜「みんなが使う駅」で木材を活用する〜 第3回
文/写真 川西康之 
   
 
 
 
*領域を超えて 第1回はこちら
 
*領域を超えて 第2回はこちら
   
  3-1 賑わいへの憧れ
   
   1960年代までの山間部において、なくてはならない存在だったのが「森林鉄道」だった。地域によっては「軌道」や「トロッコ」とも呼ばれ、山間部から物流拠点へ木材を輸送する重要な手段であった。さらに合間を縫って、山間部地域の公共交通や生活物資輸送の役目も担っていたという。森林鉄道は、山間部経済の安定と活性化を飛躍的に加速させた。
   
   今は道路整備が進み、木材輸送もトラックに移行してしまっているが、かつて森林の営みと鉄道駅とは、一体のシステムだったと言える。昔ながらの鉄道駅には、貯木場や農作物倉庫が併設されていた。地域全体の経済活動、都市部からやってくる物流や情報、そして人々の賑わい、出会いや別れが、すべて鉄道駅周辺に集積していた時代があった。賑わいとは、規模よりも、密度が高い方がより印象的だ。
   
 
  高知県馬路村に観光用として動態保存されている森林鉄道。近年は産業遺産としても注目されている。
   
 
   
  3-2 見る/見られる
   
   今現在、日本の地方都市では、クルマなしの生活が成立しない。人々は、100m先にあるコンビニへも車で移動する。道路は快適に整備され、バイパス道路沿いに大型商業施設が競うように立ち並び、街は無秩序に広がってゆく。賑わいは分散し、人々の姿は天候に左右されない建物の内部に収まってしまい、歩行者の姿は稀だ。
   
   人々はクルマという個室で、自宅や仕事場という個室から個室へ移動するため、街の中で人の顔がますます見えなくなっている。コミュニケーションの多くは携帯電話で完結した結果、「人に見られる」「見知らぬ人に声を掛けられる」という緊張感が失われ、周囲や環境への無関心は深まってしまったように思う。コンビニや商業施設へ寝間着姿でやってくる情景は珍しくない。
   
   倫理や道徳の崩壊は、地域におけるプライベイト空間とパブリック空間のバランス崩壊から始まっている、と私は思う。
   
   東京の表参道や大阪の梅田が華やかな空間である理由は、そこに「見る/見られる」という緊張感があるからだ。大人たちはお洒落に気を使い、お化粧をして、手先つま先に到るまで気を使い、背筋を伸ばして街を歩く。人々はお洒落を競い、経済は活性化し、街はますます華やかに彩られてゆく。
   
 
  中村駅近くの商店街のようす。四万十市は郊外型大型商業施設の激戦区でもある。
   
 
   
  3-3 モロッコの畑
   
   モロッコという王政国家が、アフリカの北部にある。2006年の春、私はパリから列車を乗り継いで、連絡船でジブラルタル海峡を越えて、初めてアフリカ大陸の地を踏んだ。北部の港町Tangierタンジェから南へ向かう列車は、アトラス山脈の北側に広がる豊かな穀倉地帯を駆け抜ける。アトラス山脈の南側は、灼熱のサハラ砂漠である。
   
   放牧地や畑がどこまでも広がる風景を列車内からぼんやり眺めていて、驚いた。そこら中に人がいるのだ。時期や天候条件、時間帯の関係もあるだろうが、先進国の農業地ではまず見ることができないだろう。機械化が進んでいないからゆえ、人々が畑に繰り出し、肥料をまいて働き、賑わいを見せていた。しかも、近くの集落までは何キロも離れているのに、人々は重い荷物を持って、畑の道を歩いている。
   
   政治的混乱が頻発している他の北アフリカ諸国と同様に、収入格差が大きく失業率も高いモロッコだが、そこには人間が長年築き上げてきた集落の営みがはっきりと存在していた。経済的な豊かさというよりも、人が集まって住まう風景としての豊かさを感じた。
   
   民主主義国家に生きる私たちが経済的な効率が求められるは当然のことだが、デザインという行為は、物事を整理し、機能や目的を満たし、人間の根源的な欲求や感性に対して何かしら響くことを目指すのだとすれば、例えば「見る/見られる」行為を再定義するデザインが今こそ重要ではないだろうか、と私は思う。
   
 
  モロッコ北部の放牧地の様子。人手が掛かる営みに、私たちは戻れないのだろうか。
   
 
   
  3-4 出会いと別れ
   
   築40年の中村駅舎をリノベーションして欲しい、それも地場産木材を活用して欲しい、というオーダーを、私は建築家としてお受けした。しかしながら、過疎化と少子高齢化が急速に進む高知県西南部における公共交通機関の在り方、地方都市の未来図から論じなければ、意味がないと思った。表層だけの意匠ではどうにもならないほど、現代の山間部や地方都市は生き抜く戦略を見失っている。
   
   中村駅がある高知県西南部の拠点都市・四万十市は人口3万6千人あまり、典型的な地方都市だ。ところが、この地に鉄道が開通したのは1970年(昭和45年)のことだった。大阪では万国博覧会が開催されている同じ年、高知県西南部に初めての鉄道が開通した。それまでは、紀貫之の土佐日記と同様の太平洋航路、四万十川の水運、あるいは未舗装の峠道を走るバスしか手段はなかった。中村駅が開業したとき、市民は熱狂的に開業を祝い、街は提灯行列に彩られ、大変なお祭り騒ぎだったという。
   
   鉄道というシステムが本来持ち合わせている機能とは、各地域と大都市の相互間において、人と物資を大量・高速・安全・安定して輸送することである。人口が減り続ける時代であっても、その機能が変わることはない。都市部の駅は、膨大な利用客数を背景にエキナカ・ビジネスと言われる商業施設の集積が華やかに展開されているが、中村駅の乗降客は1日あたり3千人にも満たないうえに、さらに減少し続けている。
   
  しかし、その中村駅でさえ、今でも毎日まいにち、人を出迎える人が駅に集まり、人を見送るために人が駅に集まっている。中村駅には1日あたり14本の特急列車が発着しており、ビジネス客や観光客、帰省客も少なくない。鉄道ならば、ぎりぎりの瞬間まで、同じ視線レベルで見つめ合うことができる。19世紀末、フランスのリュミエール兄弟が世界で初めて撮影したという映画フィルムは、Ciotatシオタ駅の汽車到着シーンであった。駅ならではのドラマチックな光景を、私は大事に育てたいと思った。
   
 
   
  3-5 改札口
   
   中村駅の1番線ホームは、長くて広い。かつて、この駅に発着していた列車は7〜8両編成で、郵便車や荷物車も連結され、この地域へのあらゆる物資や通信がこの駅に集積していたという。
   
   ところが、今はいちばん長い列車でも4両編成、普通列車は1両しかない。郵便車や荷物車はすべて廃止された。中村駅の1番線ホームは、単なる余剰スペースになっていた。これを活かさなければならない。
   
   お客様には、駅ホームでしっかり見送りと出迎えをして頂く。その僅かな時間が豊かになれば、鉄道を使おうというお客様も増えるかも知れない。そのために、1番線ホームからコンコース、駅舎内の待合室までを一体的に四万十ヒノキで空間を創りあげた。
   
   ホームとコンコースの間に、改札口というものがあった。見送りのために改札口内に入るには、140円の入場券を購入しなければならなかった。私は、いちばん最初の関係者打ち合わせで「駅でドラマを創りましょう。改札口を撤去しませんか。」と申し出た。
   
   ごく普通の鉄道会社ならば「無理です。規則ですから」と言われるのが関の山だが、土佐くろしお鉄道という小さな鉄道会社は少し変わっていた。「面白い。検討しよう。」ということになった。
   
   結局、中村駅ではリノベーションを機に改札口を撤去、乗車時の改札業務を中止(ただし降車時の集札と精算業務は継続)、入場券の発売も停止することにしていただいた。鉄道会社が改札口などの運輸業務取り扱いを短期間に変更することは簡単ではことではない。土佐くろしお鉄道の現場の方々をはじめ、行政関係者の並々ならぬ深いご理解と協力体制が生まれつつあった。
   
   新しい駅は単なる模様替えではない、考え方そのものを根底から変えることから始まるのだ、という嬉しい共通認識が、関係者に広がっていた。
   
 
  中村駅での見送りと出迎えに入場券は不要。自由に駅の内外を行き来できる。
 
  中村駅の裏手には、四万十川の支流・後川の土手と桜並木が広がり、夏でも涼しい風が駆け抜けてゆく。
   
   
  (第4回へ続く)
   
   
   
   
  ●<かわにし・やすゆき> 
建築家 nextstations 共同主宰。1976年奈良県生まれ。千葉大学大学院自然科学研究科デザイン科学博士前期課程修了、デンマーク王立芸術アカデミー建築学校招待生、オランダ・アムステルダムの建築事務所DRFTWD office勤務、文化庁芸術家海外派遣制度にてフランス国鉄交通拠点整備研究所 (SNCF-AREP)勤務などを経て、現職。
   
 
Copyright(C) 2005 GEKKAN SUGI all rights reserved