新連載
  スギダラのほとり(隔月刊)/第1回「木材ことはじめ」
文/ 小野寺 康
   
 
 
  今月から隔月で連載することになりました。どうぞよろしくお願いします。
この連載にあたって、雲杉オヤブンこと南雲勝志さんからいただいたテーマは、「何を書いてもいいが、大きくは"スギダラの周辺"ということで、ズバリよりもかすめるくらいの感じで」というものでした。うーん、よく分からない。その方が「スギダラの可能性を考えるきっかけ」になると思う、と。
  ――そう?
というわけで、もともとぼんやりした本人が、ぼんやりしたまま書くということになると思いますので、ぜひぼんやりとお読みいただければ幸いです。煎餅なんかかじりながら。
   
  ただ、一つだけぼんやりできないことがあって、月刊「杉」の中でこの連載は、長町美和子さんが隔月で連載されている狭間で交互に書くとのこと。長町さんは今までどおりにせよ、プロの文筆家と交互なぞという状況は冷や汗が出てヨロメキが避けられません。
長町さん、ごめんなさい。私のせいじゃないです。
  とにかく読者の皆様におかれましては、もののはずみくらいに思っていただき、間違ってもセットでお考えなさらぬようお願いします(みんな分かってるって)。
   
  第1回目はごあいさつ程度でいいということでしたので、この辺で「では次回からどうぞよろしく」と締めてもいいのでありますが、何となく悔しいから(あー、損な性格)少しだけ書いてみます。
   
 
   
  「スギダラのほとり」なぞとタイトルを付けてみたものの、正直にいって自分のような都市設計家という職業に、木材はあまり縁がない。
街路や広場、水辺といった外部空間の設計には、ノーメンテナンスの耐久性が要求されるため、そこから空間に表情を与えようとすると、どうしても石、煉瓦、鉄、ガラス、コンクリートといった、硬質の自然系素材が中心になるからだ。
木材が一番遠い。
  しかし、そんな自分が木材、しかも杉と格闘しなければならなかったことは、この月刊「杉」の『油津木橋記』でも書いた。が、これが最初ではない。
自分が木材というものに最初に向き合ったのは、自邸の設計だった。
いや、自慢話ではありません。むしろ逆です。しかも木材の話を書きたいわけでもない。
   
  家を建てようと決めてから土地探しに1年以上を掛け、ようやく土地を購入したにもかかわらず、建物は翌年にできなかった。完成したのは2004年6月だが、その間設計に丸1年以上かかっている。こだわりが強かったから時間がかかった――わけではない。
  もともと自分は、一級建築士の資格はあっても、いわゆる建築設計の実務をしたことがなかった。土地を買う際、銀行融資の条件として、土地を所得して一年以内に確認申請を出してもらいたいという話だったので、とりあえず施工をお願いしようと思っていた工務店から建築士を紹介してもらい、適当にプランをつくってさっさと確認申請を出した。後でゆっくり設計し直して差し替えるつもりで。
  しかし、実際に自分が設計するかどうかはまだためらっていたため、その建築士とは、流れで何となく打合せが継続した。しかし、これがどうにも相性が合わない。よくあることだが彼は、住宅は自分の「作品」の一つだと考えていて、さらにこの設計もそのバリエーションの一つというような調子が常にあり、どうにもこれが鼻についた。彼の出すプランを見て、この程度の発想ならいっそ自分で設計した方がいいんじゃないかと思いはじめたそんな頃、東京大学景観研究室の中井祐さんが自邸を設計して建てたというのを聞いた。まだ、建築家の内藤廣さんが東大で教鞭をとっていた頃だ。
   
  もう誰から聞いたのか忘れてしまったのだが、要するに、内藤さんが中井邸を見に行ったという話だ。
「お、祐ちゃん、いい家じゃないか、おれの家と交換しようぜ」
といって褒めていた内藤さんだったが、話の流れの中で、ふと、
「それで、お前は家というものをどう考えているんだ?」
と尋ねたという、それだけなのだが、どこまで本当か知らない。中井さんが何と答えたのかも覚えていない。人づてに聞いた、しかし、いかにも内藤さんらしいその問い掛けだけが、妙に自分の中に残った。
   
  その数年前に、その内藤廣邸でパーティするという機会があったので出掛けたことがある。GSデザイン会議の企画で、学生を中心ににぎやかに人が集まっていた光景が想い起された。
鎌倉にあるその「黒い家」のことは、建築雑誌では見たことがあった。
みどり深い閑静な住宅地の中、敷地を囲い込むような細い通りから庭伝いに入れてもらうと、シンプルな芝生の庭の奥に、建物はあった。端正な切妻で、木造の外壁が全て黒く塗りつぶされたその佇まいだけで、ハウスメーカーの造るオウチ的なタテモノとは真逆の概念のものだということが知れた。
招かれて室内に入って行くと、どこも手作りな風情が色濃く、何度か改修を入れて試行錯誤した痕跡も見受けられた。
ダイニング・テーブルは広々としていたが、妙に高さが低く、椅子はかなり幅広だった。
「胡坐をかいて座れるようにと思ってな」と内藤さんはいった。その椅子からはリビングが見渡せ、庭までも見えた。
リビングにつながる扉はたしか、厚い木板を割り、中に板を落とし込んで造ったのだと本人から説明されたと思う。ともかく通常のつくりではないということは、その古材のような風合いからうかがい知れた。面倒なことをするものだと思いつつ、そういうところに重きを置く価値観が新鮮だった。
   
  そんな光景が急に想い起された。
――自分で、設計しよう。
その瞬間、そう決めた。逃げるな、と自分にいった。
   
  すぐに頼んでいた建築士に断りを入れ、家族には自分が設計すると宣言し、工務店にはそういう事情だから発注が遅くなると伝えて設計を始めた。というより、専門書を買い漁って一から勉強し直した。
プラン作りには相当時間がかかったが、やはり問題は設計だった。なにせ矩計(かなばかり)図面一枚描いたことがない。屋根や壁がどういう思想でできているのかも知らない。
「施主」であるオクサマからは、とにかく寒くない家にしてほしいといわれていたので、高気密・高断熱の建築環境についてはずいぶん書籍を読み込んだ。最終的には、室蘭工業大学で開発された内断熱工法が我が家の壁と屋根の仕様のモデルになっている。
  本格的に木工事の図面を描くのも初めてだった。土木設計の中ではうちの事務所の図面は精緻だと自負していたが、建築では0.5mm単位なんてスケールも普通であるのには驚かされた。
断面図はすべて矩計で描いた。そうしないと、全体とディテールの整合性が、自分自身理解できなかったから。通常は、構造詳細図である矩計図は一、二枚がせいぜいで、あとは簡易な断面図で十分なところだ。
   
  しかし、建築の知識や図面の技術より、何より自分の中で重要だったのは、すべての設計のプロセスの中でつねに、
――お前は家というものをどう考えているんだ?
という問いと向かい合っていたことだった。
むろん、本人にいわれたわけではない。しかし、いつの間にか内藤さんの声が実際に頭の中で聞こえてきていた。
そして、この問い掛けが自分の中で羅針盤になっていた。迷った時、それは家といえるのかどうかが、次のステージを開いた。
   
  家は、建った。
小さな小さな家だ。
家を建てましてね、と宮崎県の人たちにいって坪数を聞かれ、答えると、「えーっと…それは駐車場?」といわれてしまうほどの小さな家。しかし、その小さな家には、その瞬間の自分の知識と経験、想像力のすべてが込められている。
  その後、宮崎県日南市の堀川運河再生プロジェクトで、杉をテーマに地域の職人さんや技術者とタッグを組んで設計に取り組んだとき、何とかなると思ったのは、この時の経験があったからだ。設計家としての自分があるのも、あの問い掛けに向かい続けられた自分があるからだと思う。
こんな話、内藤廣さんは全然知らないけれど。
   
  ちなみに、我が家のはす向かいというか、「桂馬」の位置に南雲勝志邸がある。
もちろん偶然です。こんな偶然はないだろうというくらいの、自分でも信じられないほどの偶然。
偶然ついでに南雲さんにお願いして、ダイニング・セットをデザインしてもらった。寸法はこちらで指示させてもらい、造形はすべて任せた。しっかりした木質断面をもつ端正なその家具は、手触りも座り心地も姿も良く、とても気に入っている。
そのダイニング・テーブルは広々としていて、そして妙に高さが低く、そして椅子は、胡坐が掛けるほど広いのだった。
   
 
   
   
   
   
   
   
  ●<おのでら・やすし> 都市設計家
小野寺康都市設計事務所 代表 http://www.onodera.co.jp/
月刊杉web単行本『油津(あぶらつ)木橋記』 http://www.m-sugi.com/books/books_ono.htm
   
 
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