特集 天草高浜フィールドワーク2013
  2013高浜フィールドワーク+リデザインワークショップに参加して
文/ 國盛 麻衣佳
   
 
  梅雨が明け、晴天に入道雲が立ち始める夏の訪れと共に、私たちは高浜へと向かった。3年目となる「高浜フィールドワーク+リデザインワークショップ」は毎年の風物詩のようになり始めていた。福岡、大分、宮崎、東京、韓国、中国etc…様々な場所から集まった各分野のプロフェッショナルや学生達が、車中では和気あいあいと自己紹介を始める。活躍する分野は違えども、集まる理由や背景には共通の認識が既にあった。衰退する地域が創造的な力によって生き生きする方法を、都市と地域が手を組む手立てを、日本の未来の在り方を一人一人の単位から考えるために、着地型のフィールドワークに期待をしていた。
   
  私は2年ぶりの参加であったが、中には3年間連続で参加している人も何人もいた。現地ではそれぞれの課題にチームで取り組む。公共空間の再生、高浜ぶどうのパーゴラ(ぶどう棚)のデザイン、陶石で財を成した上田家のエコミュージアム化、子どもの遊び場から見るコミュニティの創出、海の資源の再発見など多岐に渡った。
   
  私は3日間のフィールドワークの様子を、高浜の方々にもお知らせする編集部に所属した。「ふぃるどわくわく新聞」を速報として発刊し続ける、新聞部のようなチームだ。メンバーには、大分県日田市で印刷業を営み、まちづくり活動にも積極的なタカクラタカコさん(日田で知らない人はいない)。熊本県菊池市のまちづくりを学生の頃から継続しており、九州大学の社会人博士課程の佐藤忠文さん。東京でウェブデザイナーとして活躍する中尾彩子さん。どうです、一班だけでもとてもプロフェッショナルな方々でしょう。私が編集部に所属した理由は、いろんな人と話せるかなと思い、高浜の石垣についてもっと知りたいと思っただけであったのだけれども。フィールドワークの成果は、他の参加者の方々が報告してくださると思い、私は高浜の人と話すことで教わった話をただただ伝えようと思う。
   
   
  会場に到着するやいなや、50人程の参加者による自己紹介が行われた   編集部のタカクラさん(左)と佐藤さん(右)
   
 
   
  ささやかな宝石のような、高浜の石垣
   
  3日間、参加者は高浜の隅々までを味わうように、あちらこちらを歩き回る。現地調査やヒアリング、提案のシュミレーションなどを炎天下の中、熱心に行っていた。(釣りに出かけたり、海で泳ぐ面々も!)民家の塀、堤防、神社の礎、まちの中では、至る所に古い石垣があった。ささやかに、けれども確かに残っている様は美しく魅了された。これまで見てきた高浜の姿を、石の瞬きとともに囁いているかのように見えた。
   
  石垣について教えてもらおうと、地元の人に声をかける。
「すみません、石垣のことについて、知りたいと思っているんですが。」「いしがき?」「ええ、高浜のあちこちにあるじゃないですか、古くてとても綺麗だなって思っているのですが。」「…ああ、あぐまのことね。」
   
  60代の初老の男性が言うに、石垣は昔あぐまと言われていたそうだ。天草市五和町御領にある、豪商 石本平兵衛翁の屋敷周りは精密に切り出され見事に積まれた石垣が有名である。五和町の、深い鼠色のどっしりとした格調高い石垣と違い、高浜のそれは、この地域で取れる石で、すべて住民の手積みによって作られた素朴なものであった。流木のように風化した表面はミルフィーユのように、さくさくとしたランダムな風合いを持つ。小さな石だと手のひらを型取ったような大きさで、川底のような藻色。表面は星屑のようにちらちらと鉱物が輝く。
   
  「この光っている石は何ですか?」「雲母だよ。溶結凝灰岩だね。火山が噴火して流れてきて石になった。ここの石で、雲母がふんだんに含まれているものは絹雲母と言われていたんだ。」
   
  なるほど反物のように美しく、石の風化したドライな肌触りと、しっとりした色合いの相反する質感のかけ合わせが、不思議な魅力を引き立てていた。
   
 
 
 
  至る所に見られる石垣。青味を帯びているのは、石の鉄分が、経年によって酸化し緑青に変色するためだそうだ
   
 
   
  人々の暮らしに寄り添う石垣
   
  一度目に付くようになると、あちらこちらの石垣が気になってくる。セメント化した壁面の画一的な様子と違って、一つ一つ異なる顔を持っている。
  籠の網目のようなもの、シンプルに積み上げたもの、堅牢なものやリズミカルなもの。
   
  「組み方にもいろいろ技法があったと思うんだけれど、今はもう分からないな。みんなで組んでいたんです。もやいです。助け合って、今日はあん人の家の周りをしよう、加勢してもらったから今度はあの人の家の周りを手伝おうち言うてね。地域のことは自分たちでしよったんだな。」 「石には表と裏があるんだ。組む人はそれを知っているんだ。」「あぐまは裏込がされているから災害に強い。セメントの塀は水害には弱い。年月も持たない。簡単に安くできるかもしれないけれどね。」
   
  裏込とは、表面に見える大きな石の内部に、小さな石を敷き詰めることで、石垣そのものが排水を可能とする工法であった。排水の不可能なセメント塀は水圧で倒壊してしまうが、石垣は水を透過することが出来るので水害に強いのだという。
   
  セメントの普及や、まちの衰退に伴ってなくなってしまったものはとても多い。代表的なものは、昭和初期、町長を務めた浜崎さんのお宅の石垣だという。もとは庄屋さんであった浜崎さんの敷地はとても広く、お屋敷が建っていた場所に案内していただいた。現在は民家と畑とそれぞれの用途になっている。かつては100m程あったという石垣も、そこには見当たらなかった。両積み(もろづみ)という両脇から傾斜を合わせるように積む技法に加え、上部には瓦も積まれた見事なものであったという。人が減り、お屋敷を保持することができずになくなってしまった。浜崎家の前に住む奥さんは、壊されるところを見て涙を流し、石垣の欠片をもらっては家の脇にそっと置いた。小さなそれは、かつての場所を見つめているように見えた。
   
 
  右手に浜崎家、左手に奥さんの住む家。沿道の石垣はもうない。
 
  対面に住む奥さんが残した浜崎家石垣の欠片
   
 
   
  地域で仕事をする
   
  電気設備や配電のお仕事をされている大野さんは、生粋の高浜生まれ高浜育ち。奥さんとも同じ地区で出会ったそうだ。学生である私は、幸運にも民泊を経験することができた。民泊を受け入れてくださった大野さんの家におじゃまし、美味しいお刺身と、奥さんの手作りのご飯をたっぷりいただきながら、いろいろな話をした。
   
  思いきって「過疎化する中で、配電のお仕事等は大変ではないですか。」と聞くと、そんなこともないという。「仕事をした後が大切なんよ。いつでもアフターケアをしてあげることがお年寄りには大切だよ。うちが大手の業者より高くても、顔が見えて話ができて、分からないことがあったらすぐに訪ねて教えてあげる。ずっとし続ければ、皆が信頼してくれるし、人伝てに仕事の話が回ってくるよ。そしてそういうお客さんはこっちを大切にしてくれる。」
   
  加えて、仕事をまとめる側でも常に現場に行くことが大切だという。「いくら人を使ってまとめとっても、現場は行かんと見えてこん。自分は偉そうにしたくない。仕事が上手くできなかったら一からやり直すよ。」
   
  奥さんも認めるほどの職人気質な大野さんを信頼している人は多いようだった。ご自宅も自らデザインされているそうで、間取り、なげし、窓、机や離れのカラオケルームまで、ご主人のこだわりが随所に詰まった快適な空間だった。
   
 
   
  失われる地域の文化
   
  夏だということもあり、大野さんとは話題はお盆のことになった。一枚の写真を持ってきてくれた。精霊流しの写真だった。高浜は長崎との関係が深い人も多く、大野さんのご親族もその一人だった。長崎の鐘楼流しを踏襲したものだったから、それは随分と派手で、集落一大きな船で周囲を驚かせたそうだ。
   
  「昔は精霊流しをみんなでしよったんよ。今は人が少なくなったり、高齢化したり、規制が入ってできなくなった。これは郷土史家の松本さんに撮ってもらった、最後の精霊流しの写真だよ。どこにも負けたくなかったし、親父を思い切り送り出したかったから。」
   
  船は御神輿のように担がれており、提灯は50個程船に吊るされていた。初盆で挨拶に来た人が提灯を持ってきてくれ、それを一つ一つ船に付けてゆくそうだ。揃ったところで親戚が担ぎ、独特の調子を取りながら集落を回遊する。そうして港から海に向かって船を流した。
   
  「担ぐ人に水をかけているのですか?運んでいる人はずぶ濡れですね。」「違う違う、みんな汗たい。重くて汗びっしょりになっとると。俺んところの船が重くて、港に行くのが一番遅かった。でも皆喜んでくれたよ。今は規制がかかってできないのは心苦しかね。初盆は集落同士で加勢し合っとった。みんな帳簿に書いて、どこどこの誰に手伝ってもらったから、次は自分がせんといかんって言って、しよったよ。 借りがあるんよ。けれど出来んくなったけん、心苦しかよ。」
   
  堅気な大野さんらしい言葉だった。昔は精霊流しのために帰ってくる人も多く、見物客も多かったそうだ。地域にとって必要な行事だった。今は船は海に流せなくなり、提灯の数や船の大きさも規制されてしまった。また流せない船は処分代に5000円かかるという。集落の関係を保つ機会も減ってしまい、お盆の行事は縮小の一途をたどっているという。お金をかけた新しいまちづくり案もいいかもしれないが、地域の伝統を守り続けることがずっと大切だと語ってくれた。
   
 
   
  高浜のこれから
   
  沢山の方々と話した3日間もつかの間、フィールドワークは次々とプログラムをこなし、あっという間の出来事であった。どのチームも、高浜の人々と触れ合い、一人一人の話を深く聞く中で、地域の課題に対する提案を完成させていた。地元の人さえも知らない、住む人の持つ小さな営みや物語に触れている報告も多く、成果発表を通してそれらが公共のものとして持ち上がる瞬間は、貴重な場面であった。私たち編集部は、発行されたふぃるどわくわく新聞の成果報告と、石垣について語った。石垣が、昔のかわらばんのように新しいメディアになるのではないか、文化財になれなくても、まちをミュージアム化する素材になるのではないか。そこにアートやメディアを介在させることで、視覚的に新鮮に映る仕掛けを提案した。
   
  どのチームもプレゼンテーションは圧巻で、参加者のプロ意識や、学生の新鮮な視点を見せてもらうことができたし、何よりその提案は、様々な人の介入があってこその相乗効果であった。外部の人が示す提案と、地域の人が行うまちの運営に齟齬も少なくないと思うが、お互いが高浜のことを思ってのことで、なんとか同じ方向を向いていけたらと思った。
   
  情報化や消費が都市を中心に今もなお超大化する中で、本当に重要な資源やソースを豊富に持っているのは地域だと思う。情報が瞬時に更新され、町並みも常に更新し続ける都市は、多くのタイムスパンがあまりに短い。絶えず移ろい続ける刺激に翻弄され、未来にとって何が大切なものか、何が拠り所になるのか、見失っている人も多いかもしれない。一方、地方地域には、たとえば老木や石垣、自然、田園風景など、そこにあるだけで長い年月を感じさせる存在も多く、伝統文化など根源的な人の営みについて示唆してくれるものが多い。(地方は、樹齢300年の木の側にインスタントなコンビニがあったりして、時間軸にバリエーションがあることも面白いと思っている。)
   
  都心と地域、どちらか一方に留まることなく、あらゆるものが往来し回遊することによって様々な不均衡が解消されるはずである。近年、瞬間の成果や情報がますます過剰に求められる中で、地方地域はこの不均衡を救う役割もあるように思う。
   
  高浜は高度成長によって荒く開発された爪痕が少なく、多くの人の故郷となれるような普遍的風土を持っている。母なる地として、高浜がもっと多くの人々の拠り所になることを願っている。
   
 
  編集チーム「Walls tone Journal」
 
  各班の成果発表。笑いや感動や圧倒が絶えませんでした
   
   
   
   
   
   
  ●<くにもり・まいか> 九州大学大学院芸術工学府博士3年
   
 
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