連載
  スギダラな一生/第67笑 「何だかんだの10年100号」
文/ 若杉浩一
     
 

 

  天草の田舎に生まれた僕は、古里の閉鎖的な毎日がいやだった。
親父は地方公務員だった。小さい時からこの小さな町を良くするためにと、役場の若い職員や、地域の仲間達といつも夜遅くまで酒を交わしながら議論していた。
本当に、凝りもせず、毎日のように誰か来ていた。
僕はこの大人の大声を子守唄代わりに眠りについていた。
どんな話していたのかは覚えていないが、小学生の僕でも、町を良くするために、発展のために、未来のためにという、仕事には関係ない議論だった事は何となく理解出来た。
そして、この活動は、美容師の仕事を持っている母に毎日、酒の準備を強いてきた。
時々、みんなが帰った深夜、二人はこの事で喧嘩をしていた。
僕にとっては、こんな暑苦しい、沢山の人が集まってくる夜が当たり前だった。
   
  しかし、親父のこの活動は、保守的な田舎では、煙たがられた。
親父は、僕が小学生3年生頃から単身赴任で小さい出張所生活になった。
親父の正義は、家族をバラバラにし、残された家族に地域の差別を与えた。
困っている人の話しを聞き、何の得にもならない正義のために、親父は活動をしていた。
母親は、「ほんなこつ、人んよかとも、ほどがあっとたい、いつも損ばかり。」とよく、ぼやいていた。
   
  僕は、こんな早く天草から出たかった。早く大人になりたいと思っていた。
アイドルに憧れたり、流行の話しで盛り上がっている同級生の子供じみた事が大嫌いだった。
一人、JAZZに憧れ、遠くの遠くの異国の地に思いを馳せていた。
地元に興味をそそるものは何も無かった。ずっと天草の空は暗かった。
   
 

そして。僕は中学を卒業して、天草を離れた。15歳で一人になった。
もう親とは一生の間で、少しか会えない事を自覚した。 涙が出た。一人下宿で、ボロボロ泣いた。 高校に入り、仲間が出来た。凄い仲間だった。今まで会った事が無い人達だった。キラキラしていた、明るくて、死ぬ程面白くて、頭が良くて、遠い向こうを見ていた。
何かが見えた。 「俺もこげん、ふとか男になりちゃ〜〜」心底思った。 勉強なんて、どうでも良かった。 僕は、「ふとか男を手に入れたかった」これしか無いと思った。 この仲間達と一日中時間を過ごした。しだいに心が開いて来た。ゆったりした気持ちになった。このままでいいと思った。ぜんぜん勉強はしなかった。 そして、成績が下がっても何とも思わなかった。 そんなことよりもっと大切な事がることを確信した。
それからというもの、ろくでもない人ばかりと出会うようになった。
そして、あの高濱さんが現れた、最大級の変態だった、「ふとか男」だった。 映画の様な毎日を過ごした。もはや、心が開いたどころではない。 僕は、全てを脱ぎ去った。 自分自身を大笑い出来た、自分がちっぽけで情けなかった。 ちっぽけな自分が、情けなくて、情けなくって、涙が出る程笑えた。 今度は一人じゃなかった、二人で笑い転げた。 体中から汁が出た。

   
  それから、裸族になってしまった。もう何かを着れなくなった。 大学に入っても素っ裸だった。同級生がびっくりしていたが、怖くなかった。 お陰で、大学4年間で、同級生はすっかり変態になってしまった。
   
  社会人になった僕は、会社に入って衝撃を受けた。みんな鎧を纏っていた。 訳の分からない言葉を操り、ゲームをやっていた。馴染まないどころか、仲間はずれにされた。
またひとりぼっちになった。だけど、どうしても鎧を着れなかった。会社を辞めるしか無いと思った。しかし、「ふとか男のするこちゃなか」と誰かが叫んだ。ソウルで、JAZZで生きるしかないと、訳の解らない決心をした。
どうせ、一人は慣れていた。
しかし、素っ裸の僕は、メッタメッタにやられた。
いつも傷だらけだった。
そんな僕を、鈴木恵三親分が見つけてくれた。
今までに会った事の無い、カッコいい、スゲ〜〜「ふとか男」だった。
沢山、沢山デザインを教えてもらった。
素っ裸人生に決心がついた。
企業を辞めない決心と目標が見えた。
そして、ある日、鈴木恵三親分から「南雲と一緒にやれ」と命を受けた。
何事か解らず月日が経ち、自然に南雲さんと一緒にデザインをやり始めた。
   
  今までに会った事が無い、デザインの天才だった。
大らかで、繊細で、水平線のような「ふとか男」だった。
そして、スギダラ倶楽部を始めた。僕達は、意味も解らず、ノリで始めた。
だけど、少しづつ、少しづつ、見えない本質が見え始めた。
いや、沢山の人に導いてもらった。
「何のためのデザインか、何が大切なのか、何を伝えなければならないのか?」
そして、同じ事を思い、同じ姿で、同じ事を喜び合える仲間が出来た。
もう、会社から、何と言われようが、されようが、確信があった。
このままで、行ける、このままに道があるということが。
   
  そして、スギダラになって、何だかんだで12年(スギダラ倶楽部10年)月刊杉も100号を迎えることになった。そして、1700人もの人の集まりになった。
しかし、人の数や規模が重要ではない、そして集団の力ではない。
よくもまあ、世の中には、同じような変わり者がいたという、驚きと喜び。
同じことを思い、同じ姿で、同じコトを喜び合える人達のつながり。
誰かを思い、みんなが集まり、大声で語り合う、そして何かが起こる。
なんだか、昔と同じだ、親父と同じだ。同じ道を歩んでいる。
随分時間がかかってしまったものだ。
最近つくづく思う、この繋がりは、血のつながっていない親戚のようだって。
繋がりは、関係のない事柄に、心を通わせ、自分ごとになる。
人ごとが、自分ごとになる。何とかしたいと思う。
つまらない話しが、面白くなる。
つらい仕事が喜びに変わる。
くだらない話しが笑いになる。
そして、ありがとうって感謝する。
置き忘れた、忘れてしまった、当たり前のことが、身にしみる。
   
  デザインから始まったこの活動は、デザインを通じて本質に繋がり、デザインを超え、デザインに繋がる。
誰かがではなく、それぞれが立ち上がり、それぞれが様々に広がる。
そしてその奥に存在したのは古から脈々と繋がった、僕達の根っこだった。
   
  天草の親父は、相変わらず、昔からの美しい山や川や緑を未来に残すために、地域の人達と懸命に活動している。
「もういいかげん、歳だけん、そぎゃん頑張らんと、金は減るしな〜」
「相手が行政やけん、めちゃくちゃ勝ち目はなかと〜」
「ばってん、正しかことばさい、正しかって言わんと。誰かの未来やなかろが〜。だけん、やるとたい。」
「大変やな〜」
「浩一のやっとることも、同じじゃなかか。ようやっとるばい。」
「しょうがなかたい、出会ってしもうたったい。」
「俺も同じたい。」
   
  同じ根っこに繋がっていた。
   
  スギダラ倶楽部10年100号に思う。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 所属。
2012年7月より、内田洋行の関連デザイン会社であるパワープレイス株式会社 シニアデザインマネージャー。
企業の枠やジャンルの枠にこだわらない活動を行う。
日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
月刊杉web単行本『スギダラ家奮闘記』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm
月刊杉web単行本『スギダラな一生』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm
月刊杉web単行本『スギダラな一生 2』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka3.htm
   
 
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