さて、今月は山梨県の身延山久遠寺の杉を紹介します。1年前ですが、ちょうど10月15日に行って写真を撮りました。
どうして身延山かというと、去年、杉の原稿を書くことになって、ともかく生きている植物としての杉に触れようと、出かけたついでや、せっかく出かけるならば、と杉スポットを探して、「千本杉」が有名な身延山にしたわけです。私の数少ない道楽に「温泉」があり、そのときは下部温泉行きを兼ねて。まずは大きな杉を見たかったのです。東京の近場では千葉の「千年杉」も候補にあがりましたが、温泉が近くにあるということと、たくさんの杉の大木が見られるということで決めました。
当時、まだ杉にウブであった私は、久遠寺の参道から杉の大木に迎えられ、はじめて意識して見る彼らに圧倒されました。日本人の信仰や暮らしと杉が、なにかつながりをもっていることはおぼろげながらに感じていましたが、それがたいへんに深いものだと直感しました。
そして、「あ〜ぁ、こんな原稿ひきうけちゃって」といつもながらの身の程知らずを後悔しつつも、おもしろそうじゃん! という好奇心がむくむくと湧いてきたのでした。植物と手仕事、をテーマにライフワークをすすめている者としてはとりくみがいがありスギ(当時はこの洒落も知りませんでしたけどね)、というわけです。
久遠寺は日蓮宗の総本山なので、日蓮聖人御手植え、といわれる(おそらく事実はそうではないでしょうけど)杉もありましたが、圧巻はやはり千本杉。山梨県指定の天然記念物になっているそうで、千本には満たないと思いますが、40メートル以上(といわれる)高さの、かなりの本数の杉が悠然とたたずんでいます。千本杉を見るには、たしか入り口から1時間ほど歩き、その間中、杉が見られます。間伐材を伐り出しているところにも会いました。
どうしてお寺や神社に杉なのか、というのは別の機会、もしくはどなたかの稿にゆずるとしますが、ひとことでいうと信仰は暮らしと遊離したものでない、だから杉が植わっている、のでしょう。単に杉のまっすぐと天に向かって伸びる様子や、若々しい緑の葉をいつも持っている、という精神的な理由だけで、信仰の場に植えたのではありません。杉は生きていくために必要なものであり、信仰生活を続けるためにも杉が必要だったのです。
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