特集 杉と苔
  服部植物研究所と飫肥杉
文/ 南壽l敏郎
   
 
 

 父のたってのたのみで、それまで勤めていた(とは言っても胸を悪くして殆ど療養の身であったが)上野公園の東京科学博物館(今の国立博物館)をやめて郷里、九州の島南端、宮崎県飫肥町(今の日南市)に帰ったのは空襲も本格的になった昭和19年の暮れであった。翌20年8月15日惨憺たる戦争は終り、人々の多くは虚脱状態にあった。家業(林業)に従事せよとの父のたのみにしぶしぶと承知はしたものの、そのかわり小さい研究所をつくり、コケの研究を続けさせてもらいたいと言う条件を付けた。

(私記 服部植物研究所 1946-1970年 服部新佐 The Journal of the Hattori Botanical Laboratory No.34, January, 1971)

 服部植物研究所は、旧飫肥藩の豪商であり、飫肥地方有数の大林家、服部家の跡取りとして生まれた服部新佐博士(1915-1992)によって、このようにして誕生した。

 コケの分類学者として世界の研究者と切磋琢磨するために設立した研究所は、純粋な科学追求の場であり、その運営は研究所が所有する山林(飫肥杉)に大きく依存していた。前述の私記の中にも次のような件がある。「杉が生長して幾年後かに伐期に達したり、土地が値上がりしてよい買い手がくればそれを処分して、その代金でまた幼齢林や、やすい土地を求める―これらの売買差益が研究所の経費をまかなう上で大きなウエイトを持っている訳である。公社債や預貯金などでは年1割以上に廻し且つ年々のインフレに対抗出来ないことは言う迄もない。」

 この私記が書かれたのは昭和46年。当時のスギの価格は山元立木価格で12,040円、丸太価格(中丸太 径14〜22  4m)は17,100円である。(「森林・林業白書」より)つまり所有山林を1町歩(1ha)売れば最低でも500万円にはなる。研究所と服部家は、当時合わせて山林を約1,000町歩所有していたので、その運営が順調であったことは疑う余地もない。

 スギの価格はそれ以降も上昇し、昭和55年(1980)に山元立木価格、22,707円、丸太価格38,700円を付ける。1町歩の山林価格が1千万円を超えるという今では夢のような価格である。

 服部植物研究所も多くの研究者と職員を抱え、次々と研究成果を「財団法人服部植物研究所報告:The Journal of the Hattori Botanical Laboratory」で世界に発表した。まさに順風満帆であった。

 以上のように、少なくとも昭和の時代には、ここ日南市において飫肥杉は経済の中心的役割を果たした。そして一地方のみならず日本、いや世界の科学の発展に寄与した。林業を生業にしコケのことは何も知らない私が理事長としてこの研究所の運営に携わっているのにも少しは理由があるのである。

   
 
  世界で唯一のコケ専門研究所、服部植物研究所
   
   
   
   
  ●<なす・としろう> 株式会社ナス材木店 / 財団法人服部植物研究所 理事長
   
 
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