特集 杉と苔
  苔時間、杉時間
文/写真 石田紀佳
   
 
 
  上の写真は松本さん提供の「小杉苔男子」。コスギゴケの雄花盤(スプラッシュカップ):中でできた精子は雨水の力を借りて雌株の造卵器まで泳ぐ。
   
 

「コケの標本づくりは、100年後に研究に使われるかもしれない、という気持ちでやってください」
 服部植物研究所のスタッフの松本美津さんが聞かせてくれた、あるコケの研究者のワンフレーズ。これにまつわる研究者の方との会話自体がとても興味深いのですが、わたしは並行して、以前に林業家の南壽敏郎さんからきいたセリフを思い出して、感動しました。

 まだ南壽さんが服部植物研究所の理事長職についていらっしゃらなかったころ、宮崎県日南市役所の河野健一さんらが力をそそがれたエコプロダクツ展(2007年於東京ビックサイト)での出展イベントで、林業家としてお話会をしていただきました。そのときに「杉時間」というキーワードで、「100年200年後の山を想像して仕事をしている」、と話してくださったのです。

 そう、この感覚なのです。

 杉時間、コケ時間……なにも杉とコケに限った感覚ではないのですが、現代のわたしたちに欠けている、でも、とても大切な感覚。それを杉やコケが伝えてくれているのではないか。だからこそ、わたしは杉もコケもよくわからないのに、なぜか心ひかれるのだと思います。そしてたぶん、この感覚を共有させてもらっているから、南壽さんに服部植物研究所の公開キュレーションを依頼されたのでしょう。確認していませんが、きっとそうなんだろうと、今は確信しています。

 さて、2009年から服部植物研究所公開のキュレーターとして日南市飫肥に通うことになり、服部新佐博士のことや研究所のこれまでの来歴を調査しつつ、上っ面ですが、コケ(蘚苔類地衣類)のことも勉強し、方針を決めていきました。
「静かな知的好奇心」というイメージができました。
 これまで通り続けていく植物学者たちによる研究に加えて、一般の方にもコケの世界を知っていただくわけですが、この静寂で知的な雰囲気を壊してはいけない、とまずは決意しました。子供たちに門戸を開くといっても、安易な子供向けにはしないで、むしろちょっととっつきにくいかもしれないけれど、子供があこがれるような場所にすること。そうでないと、これまでに服部博士や研究者、スタッフの方々が地道につくってきた世界を台無しにしてしまう。また、従来の建物を直すにしても、飫肥という品のある街に沿ったリノベーションでなければ、やる意味はありません。
 そこで、リノベーションのデザイナーとして東京の麻布十番で骨董の店も運営する猿山修さんにお願いしました。猿山さんならぜったいにぶれずに、古いものを生かしながら、中世のライブラリーを彷彿させるような上品な空間にしてくれるだろうと期待したからです。 また、マルチアーティストである猿山さんは、内装インテリアだけでなくグラフィックの仕事もされているので、デザイン一式をしてもらえます。東京から宮崎に行くのもひとりで事足りて身軽なわけです。

 このようないきさつで、服部植物研究所の公開のお手伝いをしました。これは今も続いていて、なんと、ある展示物は3年以上もかけてつくらせていただいています。3年くらいなら、杉やコケにとっては一瞬なのかもしれませんが……。

 最後に前述した松本さんから聞いた学者さんの談話をご紹介します。標本ラベルに貼る糊からでてきたお話です。
標本というのは、10年、100年先まで存在させ続けることを考えると使用する糊の種類ひとつにしても、よく考えた方がいいです。
服部研で使われ続けていた糊は、今まで何十年ももったという実績があるでしょう。 新しい接着剤に変えたいと思ったら、それは何十年もつのか、それが科学的に証明されているのかを調べてから判断したらいい。
今は研究に使われない属の標本でも 何十年、百年先に再検討する研究者が現れるかもしれない。
これから先コケの分類の研究が続く限り標本は必要ですから、非常に地味だけれども、標本整理は大事な仕事です。
長く持つやりかたを優先すると面倒なこともありますが、松本さんで終わらず、これから先何十年も、もしかしたら何百年も続けられる仕事なのですよ。

 服部植物研究所には466,240点の蘚苔類の標本があり、上記のようにこれを整理していくというたいへん地味で重要な仕事を、日々スタッフの方々がしています。
 すぐに答えがでない、ダイレクトな見返りがない仕事。そのつみかさねで世界はできていて、その重なる塵のかすかな、でもたしかな、ひとつぶが自分なのだと、服部植物研究所に通いながら気づかされました。

   
 
 
テラリウムで育てている蘚苔類とコケについて資料が入っている引出し   一角
     
 
標本を顕微鏡で見ることができる   書庫
     
 
  200年前に蘚苔類の分類学のはじまりとなった貴重本などを所蔵
   
 
  全景
   
 

 

   
   
  ●<いしだ・のりか> フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
著書:「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
巡る庭:http://meguruniwa.blogspot.jp/
『杉暦』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_nori.htm
『小さな杉暦』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_nori2.htm
   
 
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