連載
  スギダラな一生/第70笑 「嘘をつかない仕事」
文/ 若杉浩一
     
 
 
 

デザインという仕事についた始まりは、段ボール職人として夜討ち朝駆けの段ボール砂漠の一人旅だった。僕は、その無限地獄を抜け出すために、なんとか高速度に仕事を処理する事をいつも考えていた。毎日同じ事の繰り返しの3年の月日の中で、やがて、なんとか自分の時間を少し見いだす事が出来るようになった僕は、開発のメンバーに商品パッケージをやらせてくれと懇願し、ようやくデザインらしきものを手に入れた。そして次の年には、さらに、店頭ディスプレイのデザインを任せてくれるようになった。

当然、段ボールの仕事は今まで通りにあったので、単純に仕事が増えただけだった。しかし、嬉しかった。毎日パッケージサンプルをつくるのがとても楽しかった。
その時、大学の同期の仲間は、既にちゃんと、製品のデザインをやっていた。皆で集まると、「俺は、今車のインテリアをやっている」「オーディオやっている」「電卓やっている」という話しに花が咲き、段ボール箱しかやっていない僕は、「ところで若杉はなんばしよっと?」という質問が来るのを恐れていた。
そんな時は、だいたい段ボールの中の製品の名前を言って誤摩化していた。
「う〜ん、コンパスの・・・・」とフェードアウトするのだ。

段ボールの仕事に対して、恥ずかしく思った事は無かったが、この時ばかりは、堂々と話せなかった覚えがある。とにかく、くそ真面目に一生懸命、仕事を覚えた。少しずつ早く出来るようになる事と、些細な工夫がそこに生まれる事に喜びを感じていた。様々な道具やテンプレート、治具を作っていった。

しかし、本社では、そんな事より、どこにも行き用がないのに、パッケージデザインなんか、やってどうなるとか、戦略だの、マーケティングだの、小賢しい話になってしまい、自分の仕事を否定されている様な事だらけだった。

僕は、小賢しい振りをすれば、デザインが出来るのならと、言葉を覚え、慣れない分析をし、もっともらしいプレゼンボードを作りながらも、何とか製品デザインに近づけるよう奮闘した。お陰で、ようやく5年目で、文房具のデザインに、こぎ着けた。しかし、2年目で文具事業そのものが撤退、あっという間に職をなくした。今度は、マイナーな印刷器材分野に仕事を求めた。幸い、開発部長に気に入られ、機械本体、カタログ、展示会のデザインまでやらせてもらうことになった。
しかし、今度は、事業そのものが本社から無くなり1年ちょっとで、その仕事も、終わってしまった。全く、ついていない。だけど、現場のデザイン、設計の人や、工場のメンバーにもみくちゃにされながらモノが出来上がって行くのが、嬉しくてしょうがなかった。だいたい、自分の思うようにはちっともならない、いつも、設計や工場のメンバーからボコボコにされ、デザインは、チョコットだけしか生き残らない。そのうち、ボコボコを前提にできるようになる。そうやって、少しづつやりたいことを増やしていった。

しかし、それも終わることになる。デザインそのものを首になったからだ。
上司との折り合いが悪く、企画部の内務になってしまった。といっても内務の女子と同じ仕事だ。コピーとったり、議事録とったり、会議の案内つくったり、エクセルに数字入力する仕事をやるのだ。お陰で、僕は始めてOLと肩を並べて、一緒に女子話に入れられたり、飲みに誘われたりした。始めてだったので、新鮮だったが、よく上司の愚痴を聞かされた。

僕は、本当に毎日、上司から怒られていた。
要領を得ないし、反抗的な目をしているので、余計に怒られていた。

「若杉君は、ほんと良く怒られるよね〜〜 大人になって、こんな怒られる人は見たことないよね〜〜 あんまりいつもだから、女子の中ではさ〜〜 若杉君を、結構応援してるんだよ〜〜」って言われていた。

仕事は全然楽だったが、生きてる感じが全くしなかった。 そして、また、余計な仕事を勝手に創っては、一生懸命にやり始めた。そして、さらに、余計に怒られた。完全にダメ社員化してしまった。しかし止めなかった。女子達は、「その仕事私たちがやるから。」と、「その余計な仕事」を応援してくれた。そして、2年後、また首になった。

上司から、はなむけの言葉を頂いた。
「若杉、お前にみたいな社員は、社会人、失格なんだよ。社会人とはな、言われた事をちゃんとやる、ルールを守る。そんなことさえ出来ないお前は、こらからどこへ行ったって、ダメな奴だ。覚えとけ!!」

最後も怒られて、出て行く事になった。そして次の組織へ。ここでも、全くダメだった。エリート集団のかたまりで、コンサルティングやクリエーションという部門だった。知性を語り、人を軽んじている様な目線が肌に合わなかった。仕事は本当に一生懸命にやった。2倍も3倍も調べて報告書も沢山書いた。
コンセプトづくりという事を学んだのはこの時期だ。とにかくデザインの仕事はないので、出来るだけ報告書を図式化する事に熱中し、美しい形が出来ると一人ニヤニヤしていた。

それがあだになった。些細な、問題をあぶり出しては、どうやって効率的に、合理的に、やるべきかを高らかに叫び、下請けに丸投げし、出来るだけ仕事をしないで、自分を高く売るという「仕事をしない、仕事した素振り」が出来なかった。自分がダメになるような気がして、体が言う事を聞かなかった。

自分で作る事「肉体労働」が染み付いていた僕は、また上司に嫌われた。上から目線の、更に上から目線で、この「肉体労働」を差別扱いされた。「一生懸命という言葉は、頭が悪い事」と解釈された。スマートに、時流の言葉や、本に書いてある言葉を投げあい、知識の競い合いが全然馴染まなかった。

「若杉、そんな感じで、仕事に拘っちゃだめだよ〜〜相手もサラリーマンなんだからさ〜、重くなるじゃん〜〜もっとドライにさ〜。そんな生き方、流行ないよ〜、人から使われるだけだよ〜〜」

「賢くならなきゃ〜〜 社会じゃ生きていけないよ〜」

その言葉を最後にまた、首になった。何をやっても、全力疾走のこの体質。仕事を愛してしまうこと。変える事の出来ない生き方の性で15年も足下が定まらなかった。家に帰っても、家族がいても、全然、心は満たされなかった。むしろ、情けなかった、理解してくれる人は会社には存在しなかった。

ただ、一人、たった一人の存在、師匠、鈴木恵三さんの手伝いをしている時だけが満たされる時間だった。スケッチを描く、図面を書く時間、デザインの話し、そこにいるだけで、心が震えた、そして涙があふれた。

ほんの少しのデザインが、僕を生かしてくれた。だから、いつも眠れなかった。飢えていた。どこにも、行く宛の無い僕は、折り合いのつかないまま、元の鞘に戻った。デザインチームで後輩は沢山の仕事があるのだが、僕には殆ど無かった。仕事は、一年間で一つ、収納の取っ手のデザインだった。

しかし、凄く嬉しかった、狂ったようにデザインをした。何種類もスケッチを描き、模型を作り、うんざりされる位の資料を作った。頼まれもしない、デザインを沢山提案した。当然、却下され、相手にはされなかった。しかし、そんなことは、どうでも良かった。ただ、デザインしている事が嬉しかった。体の疲れそのものが心地よかった。仕事、デザインというものが、どんなに大切か、自分は何で生きているのか、何に依って生かされているのか、「わずかな一筋の確信」を持てた気がした。

上手いか下手か、自信があるか無いか、格好が良いか悪いか、なんかどうでも良かった。やっている事そのものに喜びがあった。そして感謝した。だから、仕事の文句なんか、まるでない。少しの仕事でも感謝した。そして、少しづつ、こっそり、デザインを頼んでくれるメンバーが現れ始めた。無記名でも、時間外でも、何でも良かった。デザインの本を貪り読み、イベントには必ず出かけた。自分の中で、いつもデザインの妄想をしていた。街中がデザインのネタに見え始めた。いつもにやにや、していた。まさしく、変態である。デザインの話しをするのが大好きになった。すげ〜〜人に会うのが、話しを聞くのが大好きになった。

そして、南雲さんと出会った。もうかれこれ15年くらいになるのか?これも、師匠、鈴木恵三親分のお陰だった。そして、2002年、スギダラ倶楽部に繋がる。(正式には2004年だが、ノリで始めていた。)

不毛の、ダメ社員レッテルを貼られ、何者にもなれない30代を経て、40にして、ようやくデザインらしきものに近づけた感じがした。デザインに恋いこがれ、デザインに捧げたが、結局、始まるのに20年もかかってしまった。全く、アホは壁にばかりぶつかり、壁を避ける方法を知らない。

スギダラを始めて、全国を回り、様々な人に巡り会い、語り、供に時間を過ごし、感じた事、それは、

自分を受け入れてくれる人がいた事。
言葉や、想いが通じる事。
心から、信頼を感じる事。
また、会いたいと思える事。
そして「ありがとう」が身にしみた事。

心が、体が許さなかった事、それは、この事だったのだと気がついた。それを感じる体や、感謝する体になるまでの、長い時間だった。「一筋の確信」が実態になり、体に染み渡った。心が穏やかになった。
色々な土地で色々な人と出会う。一生懸命働いている、懸命に、真直ぐ、今を生きている。誰が見ているとか、気に入られようとか、策を練ろうとか、何も無い。ただ、今を一生懸命生きている。そして、穏やかな風を感じる。

会社という社会の始まりは、家族だった。供に未来のために一生懸命働き、汗を流し、苦難を乗り越え、創って来たものだった。頼まれもせず、自ら動き、支えあい、「0」から「1」を創った。「1」は未来への一歩だった。しかし「1」が「100」になるにつれ、一生懸命をやめた。勝手に、数字が増えるように思えたからだ。やがて、苦難や壁を避け、楽を選んだ。

楽は、喜びを失い、大切な何かを消滅させようとした。自分勝手になった。そして他人のせいにする事を覚えた。幼稚な、大人が出来上がった。スギダラで会った、田舎のおばちゃんや、おじちゃんは、学は無くとも、みんな、ちゃんとした大人だった。大企業なんか勤めていないのに、沢山の社会を知っていた。

その、おばちゃんや、おじちゃんから沢山教えてもらった。

「一生懸命、働いて。一生懸命生きて。未来へ渡す。」

ただそれだけだが、本当に大切な事だと思えるようになった。

そんな事を考えているとき、西粟倉村の大島君(木工房ようび代表)が素晴らしい文を書いてくれた。心に刺さった、そして、その事を感じる、大島君が眩しく思えた。その文の掲載を大島君にお願いしたら、喜んで許可してくれたので、皆さんへ。

   
 
   
 

祖父が亡くなった。83歳だった
僕は、おじいちゃん子でした

祖父・大島作三は中学を卒業して現場に入り
実家の土建業を開業した人で
祖父の仲間である職人さんに囲まれて育ち
彼らは、僕のヒーローであり
愛を注いでくれる大人であり
厳しさを教えてくれる人たちでした

晩年は、ボケ防止も兼ねて畑作業に精を出し
1つの畑を祖母と一生懸命に耕し
持ち前のバイタリティと集中力で
いつしか、近所の耕作放棄地を借りてまで耕し
その規模を十数倍に拡げて
近所の放棄地は無くなりました
80歳を超えても、山道を自転車で通い
坂道を登り、坂道を下る時はスピードが出すぎて転び
憤慨して自転車を持ち上げて
道端に投げ捨てて、歩いて帰ってくる
骨太な人でした

そんな祖父と孫としてではなく
起業家の大先輩として話ができた
ここ2年間は、私にとって本当に幸せな日々でした
特に、亡くなる、1ケ月前に、できた話は
私の宝になりました


正幸よ。
人はみんな豊かになりたいと願ってる
それは、子供に不自由をさせたくないとか
美味い飯を食いたいとか
住んでる地域が良くなってほしいとか
そんなものだ

だから、人はみな心に「可能性」という神様を信じようになる
だけど、人は弱いんだ
なかなか素直になれない
弱さを隠して、豊かさと、可能性を求めるから
なかなか上手くいかない
本当に自分の弱さを全部受け止めれるようになる時には
だいぶ、年老いていて
1人では、出来なくなってる

だから仲間が大切だ
仲間は信頼から来る

信頼は「嘘をつかない仕事」を通して築かれるんだ
嘘をつかない仕事をするのは難しいぞ
足のクルブシが、土に埋まる位に努力をしないといけない
努力と苦楽を糧に、信頼を得なさい

俺も、こんなになってしまって、起き上がれない
次は、お前の番だ。正幸、頑張れ
もう少ししたら、助けに行ってやるから

棺に入る白装束は、本人たっての希望で
大好きだった、作業服でした
変えのズボンを1つ多く持って
それと、背広と名刺、お気に入りの帽子
作業服が仕上がった、その日に旅立って行きました
最後まで、生きることに諦めない人でした

世代を超えて想いのバトンを渡すということ
まだ、自分の中でボヤけている所があって
私の大きな悩みの1つでした
しかし、数日前に
初めて、バトンを渡されるということの実感をしました
渡してくれたバトンの意味を理解して
全てが、今出来るようには思えません
しかし、渡された実感は確かにある
それが大事なんだと今は思います
意味は、これから

祖父・作三は、最後の大仕事を私にしてくれたのだと思います
やっぱり、私は貴方が大好きです
本当に、ありがとう

敬意と冥福を祈って
お疲れ様でした


次は、僕の番だ!


平成26年7月3日
大島正幸

   
 
   
 

壁にぶつかっている、仲間へ。
そして、大島君に感謝の気持ちを込めて。
そして、大島作三さんの冥福を祈って。

   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 所属。
2012年7月より、内田洋行の関連デザイン会社であるパワープレイス株式会社 シニアデザインマネージャー。
企業の枠やジャンルの枠にこだわらない活動を行う。
日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
月刊杉web単行本『スギダラ家奮闘記』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm
月刊杉web単行本『スギダラな一生』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm
月刊杉web単行本『スギダラな一生 2』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka3.htm
   
 
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