連載
  スギダラな一生/第79笑 「酸いも甘いも、JAZZ」

文/写真 若杉浩一

   
 
 
 

僕はJAZZ狂いである。
中学生一年の時だった、我が家に、突然ステレオという大きな家具のような、「日立のローディー」がやってきた。
母親が、新しもの好きで、兎に角、新しい家電をすぐ買うのだった。
だから、その時期に、電子レンジ、食器洗い機、あまり知られていない家電を買い込み、僕たちに自慢していた。
「こういち〜〜こん電子レンジば見んか〜〜こん箱にケーキミックスば溶かして入れて〜〜〜、チ〜〜ンばい、ほら見んか!!ケーキが出来上がるとばい。凄かろが〜〜!!」
「うん、凄か〜〜」
そういうと、お客さんが来るたびに僕がケーキを作らさせれる。
「こらケーキはですたい、こういちが作ったとです。おいしかでしょ!!」
大体こういう流れ。初もの家電の操作係になるのだ。
だから、うんざりしていた。
しかし、ステレオは違った。当時卓上プレイヤーはあっても、こんなデカい、ステレオはあまり無かった。僕は、親父が買った、たった3枚のLPレコードを聞きあさっていた。 一枚はアルゼンチンタンゴ、もう一枚は映画音楽、もう一枚はサッチモ、ルイアームストロングである。
もう、ビックラこけた、超絶技巧、素晴らしい、人間業とは想えない演奏だった。目が覚めた、「世の中にはすげー世界があるばい、音楽は、すげーばい。」
毎日、毎日同じレコードを聞いて、遠く離れた世界に思いを馳せた。
それから、自分でレコードを買うまで、僕はLPを45回転で聞いていたことを知らなかった。おもえば、どおりで凄いわけだ。
しかし、その何と言うか、絶対的に違う、大人な感じに惹かれまくった。
それからというものの、FMのJAZZフラッシュという番組を聞きあさり、録音しては、聞き返し、買うレコードを考えに考え、三ヶ月に一枚、隣町の本渡に鼻息を荒くして買いに行った。だが、そうそう、思うレコードは売っていない。大体、打ち拉がれて帰路につくことが大半だった。田舎には、「やはり、はやりのモノ」しか売ってない。そこで、発見したことが合った。映画音楽にJAZZがある!!そうマイルスデイビス「死刑台のエレベーター」
レコードに針を下ろし、聞こえて来た、真っ黒けっけのトランペット。
死にそうだった。「うお〜〜〜〜〜〜!!かっこよか〜〜〜〜〜!!」
「やっぱ、違うバイ、JAZZばい、黒人ばい。こん目がよか!ギラギラしとる!!」
それから、その格好、目つきをまねした。夏は、外で日焼けした。
天草の夏は、黒人化には適していた。
高校生になり、熊本市内で下宿した。熊本にはメチャクチャJAZZがあった。
レコードプレイヤーとヘッドホンで毎日、毎日レコードを聞いては、ドラムのワイヤブラシ一丁で、机をスネアドラム、ゼットライトをシンバル、に見立て、叩きまくっていた。狂ったようにやっていたので、机は、随分すり減っていた。
高校時代は,JAZZ喫茶に入り浸り、レコードは月一枚、ジャズの音が聞こえるだけで、見ず知らずの人の家を訪ね、上がり込み、レコードを聴かせてもらっていた。
だから、高校生のくせに、オッサンの友達がいた。
同級生を捕まえては「JAZZのリズムがたい、こんリズムが違うったい。遅れ気味で音が入る、ンタって。タンタンじゃなかばい、ンタ、ンタばい。黒人の歩き方はこうたい。よかか、足の跡に体と頭が着いてくる。日本人はこう。ほらな!!これがジャズたい。日本人からは出んぞ!!こいつは!!」
どうでもいい話しだが、発見した事に、大騒ぎだった。
兎に角、音楽の事を語るのが大好きだった。
高校一年の時、ウエスモンゴメリのレコードを買った。
ビックラこけた。自分の体には存在しない、アメリカ西海岸の風が吹いた。
高校二年の時、コルトレーンの至上の愛を買った。
体が震え、涙が出た、正座して何度も聞いた。
高校三年生でハービーハンコックの処女航海を買って、ジャズの新しい未来が見えた。大音響で音を鳴らして、怒られてばかりだった。
一浪でウェザーリポートにド肝を抜かされた。
ミロスラフ ビトゥスのベースに、おったまげた。
頭の中はいつもビートが鳴っていた。
二浪目は、博多の「コンボ」に毎日入り浸り、さっぱり勉強はしなくなった。
そして、ようやく、九州芸工大のJAZZ好き者会に入部し、さらに、身も心も、「真っ黒けっけ」になっていった。
演奏はするつもりは無かったが、ギターを始めた。
大して巧くはなかったが、先輩からセンスだけを、JAZZの聴き込み、狂いっぷりだけを認められ、スゲー人達のバンドに誘われた。
やはり自分は、大した事は無かったが、ディープなジャズばかり聞いていたので、仲間に面白がられた。
JAZZ好き者会は、変人ばかりだった。
楽器を巧く弾こうなんて思ってなかった、JAZZのソウルを手に入れるためにひたすら聴き、飲み、語り、狂う毎日だった。
また、こと更に、さっぱり勉強しなくなった。
しかし、毎日が充実していた、憧れのモノにまみれて行く、浸されて行くのが楽しかった。好き者会には、凄い先輩がいた、博多でセミプロ並のギタリスト相楽さん、名古屋弁、エルビン大好き、ドラマーの阿部さん、トランペットの埜口さん、ロンカーターばりの吉田さん。目の前に、毎日JAZZがあった。
もう勉強なんか、している場合ではなかった。(元々してないが)
毎日、しびれる音に浸っていた。音が無い日など考えられなかった。
ジャズから出る色、匂い、熱、風、自由でソウルフルで繊細で、「ほとばしる生」に酔いしれていた。
「よ〜しJAZZのように生きるばい!!」そう思った。
しかし、ジャズという生き方は難しかった。
就職し、会社に入ったとたんに、あの、色や、匂いや、熱や、風は全くなかった。僕は、風を感じるために、懸命に走り、動いてみた。
あっという間に、キズらだけになった。
いつも、壁だらけで、ぶつかってばかりだった。
キズは痛くなかったが、会社から嫌われ、次第に仲間が減って行った。
ジャズを演奏することは、諦めたが、ジャズな生き方は、どうしても捨てられなかった。
会社のデザインには、ジャズは必要とされなかった。
売るため、消費するために、大人しく、色やカタチを与えれば良かった。
どうにも、こうにも、生きる場所がなかった僕は、デザインを首になった。
企業人にも、デザイナーにも、ジャズメンにもなれない僕は、狂いそうになった。どこに行っても、誰とも、すりあわなかった。
家族に優しくされればされるほど、置き所の悪さに、震えが止まらなかった。
何かを、何かの証を持たなければ、生きて行けない感じがした。
何の確証もなかったが、思い浮かんだのは「デザインとジャズ」だった。
「デザインのジャズメンとして生きる!!」だった。
自分でも、まるで、訳が解らなかったが、これしかなかった。
今がジャズだと捉えると、不遇な、行きどころの無い、一人ボッチな毎日とは、黒人の生き様そのものだ、これは、まさしくJAZZなのだ。
「俺は、来ている!!ソウルの始まりだ!!」
何という事だ、そう思うと、モヤモヤがすっきりするではないか!!
いやむしろ、良い音が生まれるのだと、まで思えるようになって来た。
どうやら、自分は「騙されやすい自分」であるということに気づいた。
そうなれば、毎日がクリエイティブ。
出来ない時間に何かが生まれる、ダメだしされればされるほど、音を奏でて行った。もはや、制御不能。
状況は、さらに悪くなるのだが、こちらは、悪く思わない。
むしろ、ニヤニヤしている。
会社を辞めさせようと、様々な吹聴や力が生まれるのだが、こちらは、今度は、どんな手がくるんだ?と興味津々。いつか、ネタにしてやろうとすら思っている。とにかく不正やルール違反をしなければ何とかなる、それはJAZZとて同じ。コード進行、リズムを崩さなければ何とかなる、今は奏でるジャンルが違うんだと思う。
アホも、ここまでくれば、楽しくなってくる。
仕事は大して無かったが、僅かの仕事、外の仕事はあった。
全力で、あらん限りの馬鹿力でデザインした。いやそれどころか、クビになった時に得た技で、売り上げ分析や、マーケティング、企画までやり、やれる事は全て資料を揃えた。たった一つのデザインに、ここまでやるかと、皆、諦め始めた。ようやく、デザインのステージが生まれ始めた。
忙しく、デザインを処理している仲間とは違い、大切なステージだ、工場との小さいバンドだが、良い音を、大きな音を出してやろうと思う。
次第に工場や、メーカーの人達との熱いバンドが出来始めた。
僕のしつこい音出しに、面白がって一生懸命、音を刻んでくれた。
やがて、いい演奏が出来始め、売れ始めた。
モノを創る現場には、いつもの懐かしい音が有った。
気持ちを伝え、確めあい、形にするピュアな音があった。
しかし、会社には音がなかった、譜面や、楽理は飛び交うのだが、音を奏でる人はいなかった。音を出さないデザイナー、音を出さない企画、音を出さない営業。楽譜だけでビシネスが動いて行く。
デザイナーは、図面らしきモノを出せば、仕事になっていた。
「そんなのJAZZじゃねえ!!俺の心が震えん!!」
会社にはバンドマンはいなかったが、外には、凄いプレイヤーが沢山いた。
そんな、心震えるメンバーと一緒に演奏するのがたまらなかった。
たとえ、自分がデザインの立場を取らなくとも、素晴らしい仲間のために、ステージをつくることが嬉しかった。
そして、そこで、生の音を聞くのがとても楽しかった。
そこにいるだけで、涙が出そうだった。
デザインの音に囲まれているのが、とても嬉しかった。

そして、今、スギダラには、1900人ものJAZZプレーヤーがいる。
いつでも、一緒に演奏が出来る、自分の音を持った人達だ。
誰が指揮を取るでもなく、ステージがあるでも無く、どこでもライブをやれる素晴らしい人達だ。

昨年、ジャズ好きもの会の先輩、ベースの藤原さんが東京に転勤でやって来た。
僕らは意気投合し、先輩の埜口さん、今井(うちのスタッフ)とバンドを結成した。
練習の最初の一音で、全てが解った「あ〜〜〜これは、俺達の音だ!!」
それから、30年ほどの時間を取り戻すのに、あっという間だった。
ヘタクソだが、この音に込められていたもの。
それは、ジャズから出る「ほとばしる生」。
「お〜〜〜若杉〜〜この音ばい、この感じばい、俺は30年間忘れとったばい。俺は、この音のために生きて来たとたい、今からおれはJAZZで生きるばい!!」

この夏に、ヘタクソバンドは、名古屋に級友、先輩とのセッションを企画し、遠征した。そこにはあの伝説のドラマー阿部(プロ)さんがいた。
昔とさっぱり変わってなかった、パンチパーマこそしてないが、あのまんま、だった。
僕達は、阿部さんと供に、なんの音合わせも無く、演奏を始めた。
いつもの伴奏から、今井の歌、そして阿部さんのドラムが入った。
最初の一音、その最初の一音で、僕らは、ひっくり返った、体が震えた。
それは正しく、あの音だった。
いやそれどころか、その音は、さらに洗練され、決して、大きな音ではないがメンバーを導くかのごとく、大らかで、自由で、ゆったりとしていて、心地いい。正しく魂の音だった。
正しく「ほとばしる生」そのもの。
夢のような、一瞬だった。それは、先輩達も、そうだった。
「もう、そこにいるだけでいい。この音と供にいる自分が嬉しい。」
本当にそう思った。
バンドの演奏がおわり、皆でお酒を飲んだ。
「お前ら、上手くなったな〜〜。若杉〜〜お前!良い音出すな〜〜昔のまんまだ、大胆かつ繊細。いいぞ!俺は嬉しい。」
「なんば、いよっとですか〜〜まだまだ半年ですたい。阿部さんこそ、あれからどうしよったんですか?」
「俺、大学、ほら留年して、若杉達と一緒に卒業して、博多でジャズやって、実家の名古屋に戻って来て、まだJAZZやってる。」
「なかなか、食うの大変だけど、JAZZやってる。」
「ほみゃ〜〜な、俺はな〜〜最近ようやく解ったんだ〜〜」
「JAZZってな、腕じゃないって、生きて来た様だってな〜〜」
「若い頃に憧れた音ってな〜、実はいくら腕があったって出ないんだって。JAZZをやるには、まだまだ、青臭かった。」
「何が必要かって? 時間さ〜〜、生きて来た時間、時間がいるんだ。」
「恋い焦がれて、焦がれて、手に入らなくて、悔しくて、誰からも理解されず、もがき苦しんで、酸いも、甘いも味わって、ようやく出る音なんだって。」
「だからさ〜〜お前達すげ〜〜JAZZだぜ〜〜良い音だぜ〜〜」
「俺はな〜〜〜嬉しい。」
 もう、腰砕けそうになった。
僕らは嬉しくて、嬉しくて、その夜、記憶がなくなるくらい飲んだ。
JAZZやってきて良かった。
あのどうしようもない手に入らないモノ、音。
それは生き様だった。JAZZという生き方だった。

これから、後20年、更に、僕達は、JAZZを生きる。
そして、自分達の音を探そうと思っている。
酸いも甘いもJAZZ。
さあ、楽しみが増えた。

ねえ埜口さん、藤原さん、なあ、今井。

エルビン阿部さん、マイルス埜口さん、サムジョーンズ藤原さん、そして今井に感謝の気持ちを込めて。

   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 所属。
2012年7月より、内田洋行の関連デザイン会社であるパワープレイス株式会社 シニアデザインマネージャー。
企業の枠やジャンルの枠にこだわらない活動を行う。
日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長 
月刊杉web単行本『スギダラ家奮闘記』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm 
月刊杉web単行本『スギダラな一生』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm
月刊杉web単行本『スギダラな一生 2』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka3.htm
   
 
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