連載
 

スギダラな一生/第89笑 「下浦弁天会が示す未来の価値」

文/ 若杉浩一

   
 
 
 

久しぶりというか、もう忘れ去られてしまっている感もある。うちのメンバーにオペレーションを任せて、忘れ、忘れて、サボり、サボってもう何年になるだろうか?色々な人から「スギダラはやめたのですか?」「無くなったのですか?」と質問されるたびに、経緯の説明をし「ポンコツ」の存在を説明し、言い訳がましい場面を強いられてきた。
登録しても会員証は届かないし、 何をやってもWEBは更新されず、こうなれば、スギダラそのものが、僕の怪しい狂言である。何度か注意する度に、ポンコツ共は「注目を浴びた!!」程度にしか思っておらず、相変わらず野原で草を食んでいる牛のように振る舞っている。(この比喩もけっこう喜んでいる、俺は馬か、牛かで競い合っている。)
久しぶり再開だと喜んでも、安心はできない。すぐ忘れるし、低きに流れ、水底の泥のように過ごす、掻き回しても、いずれ、元の水底に沈殿するのである。

 

僕の故郷天草の下浦弁天会の特集ということで、遅れたが僕も久々に、書き出すことにした。
天草のこと、もう沢山あり過ぎて何から書こうかと悩むくらいである。それはそうだ、生まれ故郷なので沢山の思い出や体験や、風景や、匂いが体に染み付いている。
何故、スギダラケ倶楽部を始めたのか?それは完全に故郷への想いから始まっている。デザインを始めて、この職業について、もう故郷には帰れない、そういう事実への抵抗から始まったと言っても過言ではない。若い頃はあの「暑苦しい天草」がとても嫌だった、新しさも、自由もない毎日に、押しつぶされそうだった。しかし、そんな自分が、今一番、恋焦がれていた存在だと思える。宝物とはそんな存在なのかも知れない。
天草への思いを抱いて10年ほど色々な地域を巡り、色々な人に出会い色々な経験を重ねてきた中で、2011年、九州大学の天草、高浜プロジェクトに参加することから始まる。
九州大学生を中心とし夏休みの1週間弱を現地に滞在し、最終的に地元の人たちに提案するという、一大イベントを軸として、九州大学(母校:九州芸術工科大学)が行政のミッションとして関わっていた。そして、そこへ、うちのチームを含め、スギダラメンバー動員して参加したのだった。そして、次の3年間が下浦だった。スギダラの活動は大体、期限もミッションも無いので、とにかく長く付き合うし、しつこいのだが、大学のミッションはカリキュラムや行政事業のミッションや期間があるし、毎年学生は入れ替わるので、決まった行為の繰り返しになり、事業の切れ目が縁の切れ目になりがちである。ある種、仕方のないことなのだが、お金が発生する事業にはそういう宿命がある。
この構造に、行政や大学、コンサル、広告宣伝会社の、まちづくり事業が便乗して、市民の日々の活動と本質的に付合しない事に僕は、とても違和感を感じていた。
つまり、活動や生産物が市民の活動に繋がらない事がよくある。そこには、提供する側、受け取る側の関係、供給する側と消費する側の対極するお互いの関係があり、この関係そのものが、住民の創造的な行為、自発的活動、愛情や、情熱が、自分ごと化しない実態を生み出しているのではないかと、参加しながら、思っていた。
そして、僕は、スギダラ的に、自分流で天草と向き合う事を改めて決意したのだった。
何の制約も、対価もない自発的活動、それこそが「スギダラ流」つまり「愛の押し売り」だ。
自分の目で見て、対話して、何ができるか?じっくり行うのである。

   
 

そんな時に、原田製材所(天草)のお嬢さん原田るみこさん(どこかで僕のセミナーを聞いたらしい)が、偶然にも、僕を天草に呼んでくれた。こりゃ運命である「若杉さん、県の事業で、ヒノキプロジェクトをやるのですが手伝っていただけませんか?」
勿論「はい、いや、イエス、いや、大歓迎です!!」だ。細かい話はさておき、再び僕は天草に行くことになる、そして、毎回のように下浦弁天会の皆さんに声をかけ、毎回のように夜遅くまで懇親し、天草ヒノキを超え、余計な提案や活動ばかり行い、銀天街で発表会をやるわ、もう天草ヒノキだか、弁天会だか良くわからない状況になり、勝手に盛り上がる会になって行った。しかも、そんな事まで求められていないのに、まさに悪ノリだ。これだから真面目な人たちから、嫌われるのかも知れない。制御不可能だから。

   
 
  ヒノキプロジェクトの発表風景
   
 

そんなある時に、無印のデザイナー、小山くんから、捨て置けない話を聞いたのだった。

「若杉さん〜無印の福缶やっているんですが、どこか面白いもの知りませんか?」
「お〜〜俺の故郷の天草に、山姥という聖母マリアの土人形あるぞ、それどうだ?」
「知っていますよ〜〜僕も行きましたから、だけどね、福缶に入らないでしょう、大きくて。」
「まじか!!そうか〜〜、それを入る大きさにしたらどうだ?」
「可能性あるかもです。」
「試してみよう。」そんな、軽はずみな会話から始まった。

考えているうちに、だんだんまた余計なことを考え始めた。どうせなら、新しいものをデザインして提案した方が面白くないか?新天草土人形なんて・・・時代の願いや思いを形にしたものだから現代版土人形の方が絶対面白い!!
そう思えば思う程、思いは募っていく。そして、次には「デザインは下妻だ!!あいつ俺に、立体物デザイン出来ますって言って、プロダクトデザインチームなのに、グラフィックしか出来ないのに、嘘ついて、入社しやがった。図面は絶対描けないけど、これだったら、手で作ればなんとかなる、鹿沼では縁起物やれたしな・・・」ということで、プロジェクト開始になった。
「いいか、下妻、縁起物、人々の願いや、希望や、夢や、笑いや・・・そういう思いが詰まって手にしたいものを作れ、出来上がったら、無印の小山くんに見せる。採用されたら、天草に行く!!天草に連れて行ってやる。どうだ!!」下妻の場合、前半は記憶に残らず、後半の「天草いける!!」だけが残る。いつもは、草を食む「下妻牛」も楽しい目的には俄然、働き出すのだ。しばらくして、いくつかの試作が出来上がった。さすが下妻、目の前の人参には反応が良い、どれも愛らしく素晴らしい出来だった。相変わらずの動物シリーズもあったが・・・。その中で特に「メジロ押し」は秀逸だった。早速、色付けをし、何の現地の確証もないまま、無印に提案した。そして見事、採用されたのだった。こうなれば、誰の反対もあり得ないと思っていたからだ。モノ、売り先、販売確定の三種の神器を持てば誰も逃げはしないと、確信して、下浦弁天会に相談した。そして、始めて「天草土人形保存会」に訪れた。
全く順番が逆である。というか、長年の間、やりたい事を進めるための習性?が体に染み付いている。

   
 
  メジロ押しに着色をする下妻牛
   
 

そして弁天会のメンバーと一緒に保存会の工房を訪れた。確実に1000個のオーダーがあり収入も見込める。しかも何だか未来がある。ワクワクしながら訪れたが反応はまるで逆だった。困惑しているというか、むしろ迷惑そうな感じだった。

「あの〜私ら80代のメンバーばかりで、楽しみ代わりにやっとるんです。1ヶ月7〜8万売れれば充分です。こんな数持って来られても、やれる気がせんですばい。」
「天草土人形は、皆さんが辞められたら終わりじゃなかですか・・・その後に後継者ができるチャンスもあると思うとですばってん。どぎゃんですか?」
「そげん、言われてもですね・・・」もう完全に予想外だった。しばらく沈黙が続いた。
「作り方とか教えますけん、あんた達でやらんですか?」
「そら、天草土人形じゃなかとじゃなかですか?」
「元々農閑期の仕事で始まったもんだけん、下手モノですたい、誰がやっても良かですよ。」
「下浦土人形(どろ人形)で良かですたい。」

   
 
  天草土人形保存会の工房での攻防
   
 

こうやって、見様見真似で始まったのだった。色々、紆余曲折ありながらも、下浦土人形プロジェクトが2017年に始まった。プロでも何でもない集団のモノづくりの始まりだった。何かの思惑や計画があったり、今に繋がる道筋なんて何も考えていない。余計なお世話の連続が、今に繋がっている。
2018年新年の無印福缶に採用された下浦弁天会の土人形は8万セットの1000個と1%ぐらいの少なさにも関わらず新年早々、ネット上でバズり、話題になった。「可愛い」
「欲しい」という声が重なりヤフオクで、高値で取引される程人気を呈した。
みんなの苦労が、報われた瞬間だった。その後「ひっぱりダコ」「下浦の守り神、弁天様」を追加し順調に緩やかに活動と売り上げを上げていた。

   
 
   
 

しかし、あの事件が起きる「コロナ禍」だ。全てがフリーズしてしまう。人の活動が極端に制限され、暮らしに暗雲が立ち込めた。
そんな時。下浦弁天会一番の活動家、宗像さんから連絡が入った。
「若杉さん、下浦には疫病が流行った時に、まちを守ってくれるためにシカ様を作ってお参りしたとです。アマビエも熊本の海に現れた神様じゃなかですか、アマビエを作って無病息災をお祈りせんですか?」

「そら、よかですね〜やりましょう!!」
「ちょうど、没になった型があるじゃなかですか!あれどうでしょうか!」
(油すましを試作したのが、水木しげる大先生のパクリだったので没にした。)
「良かですね〜それで絵付けして、そして下浦の神社でお祓いして、土人形に神璽を貼ってやりましょう。地元の神様と繋がった方が、よかですばい。」

今度は、地域の下浦神社も一緒に願いを込めて限定で販売をしてみた。地域の願いを込めたかったからだ。あっという間に完売した。いや想像以上の反響だった。
そんなこともあり、僕は、疫病のことや、病気に対する過去のこと、江戸時代のことを調べてみた。人々は何の医学的な手段もない時代に、どうやって疫病や死というものに向き合って生きてきたか?なぜシカ様なのか?アマビエなのか?を知りたかったからだ。
その時代はインフルエンザでさえ10万人の死者を出す程の時代だ、病気を治す技術どころか原因さえわからない恐怖と立ち向かわなければならい。だからこそ、「養生」という言葉が生まれた、つまり病気にならないように、健全に生きる生き方を求めたのだ。それは、食から始まり、健全な過ごし方、健全な精神の持ち方、健全に生きる全ての所作を言う。
お札、お参り、縁起物、厄除け、全て、人々の心の持ち様と晴れ晴れと生きる所作がここに込められていた。つまりどんな状況でも心を健全に生きると言う暮らし方が「養生」に込められているのだ。何と素晴らしい知恵だろう。

   
 
  コロナの終息と、無病息災を願ってつくられたアマビエたち
   
  こんなに化学が進んでも、私たちは薬に頼り、病院に頼り、それでも不安に生きている。
下手すれば、自分以外の人を毛嫌いする傾向さえある。当時の疫病は、対処しようのない生死を孕んだ出来事だった。そんな中で導き出した集団の知恵が「養生」であり、祈りであり、神様であり、お札であり、縁起物であった。どんな時でも、心は、能動的に健全に生きようとしたのだった。素晴らしい生きる知恵ではないか。そんな気持ちの存在を、僕たちは忘れ、病気という物体を根絶するも、病をどう受け止めるか、生きるかという精神性には、丸腰で、病気になるような欲望の生き方を重ねながら、病気に畏れて生きる、不幸な心持ちなのかも知れないと思った。この「養生」という土人形「アマビエ」は次第に人気を呼び、広がっていった。テレビや雑誌で取り上げられる度に注文が増え、下浦弁天会一のヒット商品になって行った。そして、このお礼に、下浦神社に絵馬を奉納しようと提案した。神社の絵馬は100年後にもこの時代の物語を繋いでくれる、そしてまた100年後の何かの時にこの神社の、この地域で起こった願いが受け継がれ、心を豊かにしてくれる。そう思ったからだ。
下妻に絵を描いて貰い絵馬を奉納し祈願した。こういう歴史の積み重ねが、人々の営みを創っていく。あの1000年も続く祇園祭も、疫病への祈りから始まっている。行政の仕事だから観光だからではないのだ。健全に生きようとする人々の希望の可視化のデザインなのである。そう考えると近代化は、全て、テクノロジーや他人任せで、能動的に暮らしを建てるという原始的なことを忘れていたのかも知れないと思うのである。
   
 
 

下浦神社にてお祓の様子

   
 

こんな状況だから、「健全に生きるという活動、モノづくり」はアマビエから、下浦の人達の生き方を映す鏡のように光り輝き地元の子ども達から沢山の人達の喜びや、願いと重なり沢山のつながりを創っていった。沢山の喜びや、願いは、作る人達にも喜びと誇りを与える。
何も無かった下浦の通りに「下浦弁天会の工房」の火がともり、元気に働いている人達の活動や喜びが見える、そしてその活動は、美しい下浦の入江の風景と重なって、息を呑むほど美しい。
結局、賑わいとは、人がいるかどうか、店があるかどうか、お客がいるかどうか、売上があるかどうか、とかでは無く、人が創り出すものなのだ。賑わいは、人を呼び、店を作り経済が発生するのだ。
文化や伝統も人々の細やかな祈りや願い、日々の営みの連続から生まれたのだ。その積み重ねが文化や伝統という宝になるのだ。だから「あったもの」ではなく「創り出すもの」なのだ。現代人の最も弱いところは、時間に耐える事だろうと思う。僕が幼少の頃は息子のため、孫のため、子孫のためと言って山に木を植えたり、手をかけたり、50年、100年先のことを考えて風景を作り、家を作った。ところが、自分の手に入るものばかりにで、会社も役所も未来のことと言いながら、せいぜい任期の間、来年、四半期、の結果ばかり気にしている。
つまり現代は、積み上がらない、消費する社会作ってきたのだ。これでは、文化は生まれない。せいぜいトレンドだろう。
今だから、こんな時代だからこそ、100年後の未来に思いを馳せ、今行動する事が大切なのだろうと思う。そういう温かい思いやりこそ、未来を創っていく純粋で単純な本質に思えるのだ。
「自分のことばかり考えて、未来を切り崩して生きることから、未来の為に思いを馳せ、自分を捧げる幸せ。」で生きることなのだと思う。その幸せな気持ち、つながりが、コミュニティーを創っていくのだ、そう確信している。
僕の尊敬する、偉人、デザイナー、秋岡芳夫(熊本八代出身)は、僕ぐらいの歳の時こんなことを言っている。
「地域のモノづくりを捨てることは、地域のコミュニティーを崩壊させる。」
「地域のものづくりは、地域のコミュニティーを豊かにする。」
僕は、そんな単純なことではないだろうと、本を読んだ時は疑っていた、しかし、本当だった。

ものを作ることは、考えること、自分を見つめること、そして一緒に、ものを作ることは、仲間を認識し、感謝し、思いやり、喜び合うこと。
そして、それを受け取った人と、繋がること。繋がることは、生きる喜び。
そんな、単純な事を、忘れてしまい、難しいことばかり言い、誰かのせいにして、相変わらず、ものを消費して生きる私達は、類猿人「作れない人」なのだ。
50年前にそんなことを、そんな時代を思い警鐘を鳴らした先人の声がようやく心に入った。

今「下浦弁天会」は学生が下浦で地域を学ぶ為にお借りした「石井邸」(12部屋ある100年の古民家)の利活用や再生に動き始めている。学生が来たことで、建築士会のメンバー、オーナーの石井さん、そして、弁天会が繋がり、新しい試みを始めている。
下浦のくらしや、未来を考え始めている。このつながり、共同体がきっと未来を変えるのだと思う。場所は離れても、住む場所が違っても、同じ温かい気持ちで繋がり、自らのくらしを創り、未来を創造する。この意識、行為こそ、次世代への本当のイノベーションの始まりなのだろう。

 

縮退する社会、人口も経済も確実に縮小していく事は、目に見えているし、東京だって天草だって事態は変わらない。しかし、この「モノを作り、表現して」、「対話し、繋がっていく」意識や活動があるか、無いかでは、未来は確実に変わる。
下浦弁天会には、忘れてしまった、本質的な、未来への可能性が溢れている。

さあ〜〜また懇親すっですばい。

   
 
  弁天会のメンバーと
   
   
   
 

●<わかすぎ・こういち> デザイナー
武蔵野美術大学 クリエイティブイノベーション学科 教授

日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長 
月刊杉web単行本『スギダラ家奮闘記』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm 
月刊杉web単行本『スギダラな一生』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm
月刊杉web単行本『スギダラな一生 2』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka3.htm

   
 
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