春、山菜のおいしい季節です。山ウドや筍、こごみ、ワラビ、ゼンマイ、と居酒屋の壁に貼られたお品書きを見ていて、アク抜きの話になりました。下ごしらえが全部済んでいる水煮の真空パックは楽だけれど、やっぱりほろ苦さを残しながら自分でアク抜きした方が絶対おいしいよね、って。
以前、稲作の副産物である藁を使った暮らしの道具を雑誌の連載で紹介していた時、縄のれんを撮影させていただいた湯島の「シンスケ」で、ご主人から聞いた話では、昔は、市場で仕入れる野菜や魚はみんな木箱や荒縄を使って荷造りしてあったので、それらは竈(かまど)にくべられて燃料となり、灰になり、最後は山菜などのアク抜きに使われた、とのこと。そういや、アクは漢字で「灰汁」って書くんだもの。
藁は日本人の生活の中で、土壁を固める藁スサや、馬や牛の飼い葉に、敷き藁に、畑の土の肥料に、農作物の保温に、ムシロとしても、その他モロモロ本当に大活躍して、最後はいずれも土に戻っていく素晴らしい素材だったわけです。それは、藁だけじゃなくて、他の素材すべてに言えること。米が必要だったから藁の存在があったのはたしかだけど、藁だって米と同じくらい大切に消費されていたんですよ。廃物利用とかそういうレベルのもんじゃなくて、どっちもなくてはならない存在だった、と。食べて使って肥やしにして、とそこまで完璧にサイクルが出来上がっていれば、自然と人の暮らしってのは何の無理もなく回っていくのです。
前に、筑波大の安藤邦廣先生に里山の変遷について聞いて、そーかぁ!と感心したのは、日本人が杉をこれだけ植えるようになったのは、桶や樽によって食料の保存や運搬が可能になって、人やモノの流通が盛んになって、人口が増え町が大きくなって、家をたくさんつくる必要が生じた頃からであって、それ以前の古代には、杉よりも燃料や肥料として有効な松の植林が主流だった、という話。松から杉へ植生が自然に移り変わってきたわけじゃなくて、日本の山は「人がつくってきたんだ」ってことよ。
今、杉の活用を語る時、環境保全の目的もあって、「これだけたくさんあるんだから積極的に使わなくちゃ」って、どうしても意識の方向として「使ってあげよう」的な、今の尺度に合わせたやり方に向かいがちなんだけれど、自然の植生を暮らしに生かすことを真剣に考える場合、暮らしのリズムそのものを植生のリズムに近づけていかないと(簡単に言えば、早すぎる時代の変化を抑えて、ちょっと昔の暮らしに戻る、ってことですね)、根本的な解決にはならないんだろうな、と思うわけです。50年かけて育った木は50年しっかり使って、その後もただのゴミにするんじゃなくて、何かに転用されて、最終的には土に還っていくような仕組みを整えていかないと。
割り箸が生まれた背景だって、間伐材や端材や建材として使えない部分をちゃんと利用しよう、というもったいない精神があったわけでしょう? その上で、一度しか使わない清潔感とか、便利さが評価されてこれほどまでに広まった、と。今だって国産の割り箸はそうやって「有効活用」の範囲で生産されているはずだけど、日本で消費される分がすべて日本の間伐材や端材だけでまかなわれているわけじゃない、というところがやっかいよね。世界中でこれだけ日本食が食べられるようになると、海外の和食レストランで消費される割り箸の量もばかにならないし。もちろん、熱帯雨林の破壊が割り箸のせいだ、とかいうのは間違った情報だけど(割り箸は南洋材ではつくれないし、現地で伝統的に行われている焼き畑とか、燃料用に伐採されているなど別の原因がいろいろ絡んでいるのです)、中国でガンガン木を切って割り箸つくっているのはどうかと思う。安いからといって輸入する日本もよくない!
一昨年、仕事で行った上海では、レストランで使うお手ふき(ちゃんとした布製の)も使い捨てで、日本のように回収してクリーニングするようなサービスはやってない、という話でした。「その方が安くつくから」と現地コーディネーター。そうなんだよね、みんな「安い」「早い」だけですべてが決まってしまう。
植える木の量、使われる量、木が育つまでの年数、使用する年数、使用後の活用、自然への返還、その循環がうまーくいけば、割り箸だってなんの問題もないはずなのに。今から江戸時代の暮らしに戻ろう、とは言えないけれど、そういうエネルギーの循環がうまくいっていた時代の社会のあり方を振り返ってみることは大切だ、……と、山菜のアク抜きの話からここまで来てしまいました。すみません、強引で。 |