スギと無人駅
文・写真/南雲勝志
 
 

 

先日行われたhappiの展示会「Happi2 Tokyo Station」で我々のチーム「鉄結」は無人駅をテーマにしたデザインの提案を行った。今回はそこで感じた無人駅と杉の問題の共通性について語ってみたい。
「鉄結」は鉄道を通して人と人の結びつきを考えようというのが大きなテーマ。デザイナーと企業のコラボレーションでチーム編成、デザイナーがボクと藤森泰司さん、企業がJR東日本フロンティアサービス研究所、全体のディレクションが若杉浩一という鉄壁の構成。

 

鉄結

 

鉄結の展示:行幸地下通路(東京)
 

JR全体で無人駅の割合は約40%。数にして2千ほどあるらしい。しかしその収益といえばほとんどが赤字、利益は出ない。結局都心の黒字路線(ほんの数路線らしいが)で利益のほとんどをたたき出し、全体に分配する形となる。当然利益のでない地方の無人駅などは優先順位として末尾になる。我々が思うに利益のほんの1〜2%無人駅に回すことで相当いろいろ出来そうなのに、と思うのだが、これも経済主義の運命。
対経済効果で見るとそうなるが、風景の美しさの度合い、またほっとしたり心安らいだりする度合い、もっと言えば僕らの記憶の中にある駅の原点としての価値の度合い、といった視点で見ると経済的役割と逆さまになる。新宿や渋谷などの巨大なターミナル駅で、駅って良いなぁとは思わない。駅の景観て美しいなぁとも思わない。お金ではない、お金では計れない価値を無人駅とその周辺は持っている。
無人駅であろうとなかろうと、もともとその建設においては周辺住民の未来の大きな希望や経済効果の期待、それを支える鉄道土木技術の力によって敷設されてきた。豊かな国を目指して。
ところが新幹線のような大動脈は別として、その後モータリゼーションの波に埋没することになる。

一方で杉も何百年と日本の文化を担ってきた。日本固有の樹種で住居や生活の道具として、当たり前のように使われてきたからだ。そこには環境問題の意識など当然無く、普通に人と杉の良い関係が成立していた。そして戦後の木材自由化や木材に変わる新たな材料の登場、高度成長の勢いの中で杉の存在は薄れていく。
杉も、無人駅も、もともと人や地域といい関係であった。未来も希望もあった。
それがどうして先すぼまりになったか?
経済優先といってしまえばそれまでだが、要はそれがなくても成立するという意識ではないか? 風景の美しさよりも便利さや効率を選択する。長年付き合ってきた素材でも手間もかからず安いものがあればそちらを選択する。つまり優先順位の問題なのだ。
鉄道対車というと解りやすいようだが、鉄道は基本的にパブリックな要素をそこに持ち、道路も同様にパブリックであるが車は逆にプライベートなものであり、共同意識の欠如が根底にあるように思える。

手間や時間をかけ育てていくというプロセスに近道はない。
今回の鉄結プロジェクトを進めていくプロセスで大きなポイントは地域住民の意識であった。モデル駅に選んだ馬来田の人たちは自分たちで駅を守り、イベントを行い、地域を考える。逆に小さい駅だからこそ、そこを地域の力を会わせ、コミュニケーションの中心にしたいと本気で考えられたのだろう。そう考えるとチャンスはたくさんある。そしてそれが人の心を動かす。要はそういった声や意識が立ち上がるかどうかだ。そうすればJRだって行政だって無視はしない。
そしてそれをより具体的に説得力のあるものにするためにデザインは必要になってくる。この辺りで杉も無人駅もいっしょだなぁと思ったわけだ。

スギダラは全国の問題、無人駅だって全国の問題。でも一般的に馴染みの低い問題であり、本質論ではないように感じるかも知れない。しかし杉や無人駅をキーワードに社会を見たときに見えてくる社会の抱えている歪み、それはパブリックで基本的な問題であり、日本人にとって失いかけているものや財産といったもの、それらの共通認識を持つことに繋がっていると思う。そこで自分たちで出来ることを考える。これは経済よりもっと価値のある本質的な問題である。
「美しい国土」をつくろう、と大上段にかけ声だけをかけてもみんな他人事である。小さくてもいい、地域地域で力を合わせ、ひとつひとつ歪みを戻していく大切さを感じている。それはごく身近にある。

   


 
  ●<なぐも・かつし>デザイナー
ナグモデザイン事務所 代表。新潟県六日町生まれ。
家具や景観プロダクトを中心に活動。最近はひとやまちづくりを通したデザインに奮闘。
著書『デザイン図鑑+ナグモノガタリ』(ラトルズ)など。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部

 
   
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