連載

 
『東京の杉を考える』/第15話

文/ 萩原 修

あの9坪ハウスの住人がスギダラ東京支部長に。東京から発する杉ものがたり。
 
 
 

「ナグモカツシがめざしているもの」

現在の時刻、2007年8月20日(月)午前1時45分。

ビールを飲んで寝ていたけど、ナグモカツシの夢を見て目がさめた。
しょうがないので2階の自分のデスクで原稿を書くことにした。
少し暑さがやわらいできたといえども、今日も熱帯夜だ。ぼくは、地球温暖化をことさらに意識したことはないけど、何か地球規模で変化がおきているのは感じている。それは、自然の変化以上に、社会の変化だ。それが、いい方向と悪い方向のふたつにわかれている。そのどちらに進んでいくのか見えない。ぼく自身、どちらの道に進んでいいのか決めかねている。

そうそう、ナグモカツシの夢の話を書かないといけない。
夢の最後のシーンは、山に向かっての一本道を、ひとり歩いているナグモカツシの姿だった。山は、たぶん新潟の山だ。ナグモカツシが元気に歩いて行ったのか、トボトボとだったのかはわからない。だけれども、ひとりであることは確かだった。後ろを振り返ることはなかったけど、顔の表情は、思いつめた顔をしていたともとれるし、これから向かう場所への覚悟をひめて引き締まっていたともとれた。

ぼくの前にナグモカツシがあらわれた日は、正確には覚えていない。たぶん1995年のことだと思う。はじめて会った日の印象を言えば、自信があるようなないような、強きなような弱きのような態度だった。既に雑誌などでは、ナグモカツシノの家具の存在を知っていて、こんなに独創的な家具をデザインする人に会ってみたいと思っていた。偶然なのか、必然なのか、ナグモカツシは、ぼくの目の前にいた。長身で長髪。はにかんだようにもこわいようにも見える表情を浮かべて。

ぼくは、1993年から2004年の約11年間、新宿のリビングデザインセンターOZONEの運営にかかわった。施設がオープンしたのは、1994年の7月。すでにバブルもはじけ、何かがはじまるというよりは、終わったあとに何をしようかという雰囲気だった。バブルの時に計画されていた施設のせいか、まだ、いくぶんはアワが残っていた。

正直言えば、この施設をオープンするまで、デザイナーの知り合いはひとりもいなかった。いや、正確に言えば、メディアに登場するようなデザイナーの知り合いがひとりもいなかった。メディアに登場するデザイナーとそうでないデザイナーのどこに差があるのかはわからない。わからないけど、何かあきらかな差がある。どちらが偉くて、どちらが優秀だというわけではない。たまたま、そういう役割をになっているだけだ。

ナグモカツシは、あきらかにメディアが必要としている人材だった。その大胆な家具のデザインは、他の誰にもまねすることができない。「PROJECT CANDY」という家具のシリーズが発表されたのが1994年。1995年には、そのプロジェクトをミラノで発表、翌年には、イタリアのデザイン誌domusで大きくとりあげられた。1996年、1997年にも、ミラノでの発表を続けている。言うまでもなく、ナグモカツシは、世界レベルで評価されるデザイン力をもっている。

1996年7月11日〜7月16日までOZONEで開催された「LIVIN具 DININ具展」。これがナグモカツシの家具がOZONEに並んだはじめての展覧会。「PROJECT CANDY」やら「LIVIN具 DININ具展」やら、すでにこの時期には、そのダジャレ的なセンスのネーミングの片鱗がみえる。

その後、1997年には「第2回暮らしの中のAKARI展」と「第3回暮らしの中のスツール展」にも参加し、OZONEの展覧会には、なくてはならない存在となっていく。さらに、1998年には、「スーパースイッチ展」、「イスコレ1」。1999年には、「第4回暮らしの中のスツール展」「イスコレ2」に参加するとともに、はじめての個展「タカラバコタチ展」を実現している。2000年には、「イスコレ3」「AKARI? PRODUCTS」。2001年は「ON-HOT展」「イスコレ4」「クリエーターズ・サイト展」。2002年「イスコレ商店街」「ケータイあかり展」。2003年「プロダクトデザインの思想展」と続く。

なんだか今考えると1996年から2003年までの7年間は、驚異的な展覧会の数だ。
もちろん、これはOZONEだけの展覧会だから、それ以外の展覧会もある。通常の仕事をこなしながら、これだけの展覧会にかかわる意志と体力は、並はずれたものじゃない。内容的にも、そのデザイン力は、他を圧倒するものがあった。

現在の時刻、午前3時11分。

すでに、ここまでで、資料を探しながら過去をふりかえっていたら、そうとうな時間がたっていた。汗がだらだらしている。アセダラである。パソコンの熱で暑い。ちょっと、冷蔵庫に行って、水分を補給してきたいと思う。

今、戻ってきました。麦茶がひえていておいしい。うちわであおぎながら、原稿を書き進めたい。皆さんも忙しいでしようが、もうしばらく、おつきあい願えるとうれしい。

ぼくが2004年7月に、リビングデザインセンターOZONEを辞めて、まず取り組んだことのひとつが、ナグモカツシの本「デザイン図鑑+ナグモノガタリ」をつくることだ。

ナグモカツシが書いたあとがきには、ぼくが言った発言として、「売れる売れないと良い悪いは違う。良いデザインでも、人に知られないと意味がないから。デザインの専門書とか単なる作品集じゃなくて、南雲勝志が何を考えてあーいうデザインができたのか、デザインの興味のある人に知ってもらえるような本にしたいんです。ナグモ本をつくって、そこからデザインの大切さ、力、可能性がもっともっと広まっていけばいい。そのきっかけにしたい」となっている。

奥付には、2004年9月28日とある。余談だけど、ぼくもナグモカツシも9月28日が誕生日だ。この誕生日に、青山のプールアニックで出版記念の展覧会のオープニングパーティーがあった。この時に、ナグモカツシは、スピーチで「これから3つのグループを中心に、活動していきます」とはっきり言った。

ひとつが「スギダラ」。ひとつが「happi」。そしてもうひとつは忘れた。なぜか、ぼくは、そのふたつの活動に首をつっこんでいる。

現在、2007年8月20日。あれから3年近くがたとうとしている。この3年間でナグモカツシに何があったのか。

ぼくは、happiなどの打ち合わせで月1回会っているとしても3年回で36日。残り1000日以上を、どこでどう過ごしていたのかまったくわからない。いや、うわさによれば、やたらと地方に行く回数がふえていたことは知っている。あきらかにこの3年間で、インテリアのプロダクトの仕事よりも、景観のプロダクトの仕事が増えているようにみえる。

ここでおさらい。3年前の本「デザイン図鑑+ナグモノガタリ」に乗っているナグモカツシの略歴。

新潟県六日町生まれ。
東京造形大学 室内建築学科卒業 
永原浄デザイン研究所を経て
1987年ナグモデザイン事務所設立。
現在、ナグモデザイン事務所代表。

都市環境デザイン会議会員
日本インダストリアルデザイナー協会会員
ICSカレッジオブアーツ講師
日本全国スギダラケ倶楽部本部

となっている。

最後の「日本全国スギダラケ倶楽部本部」に注目したい。
スギダラにかなりの思い入れをもっていたことがわかる。
「本部」である「本部」
残念ながら、happiメンバーとはなっていない。

この本には、ナグモカツシのデザインしたプロダクトを昆虫にみたてて、図鑑のようにみせようと意図した。

ザ科9匹、ウチアカリ科5匹、ソトアカリ科5匹、スギ科6匹、ダイ科8匹、ハコ科2匹、アイボウ科8匹、マチ科8匹。の合計51匹の生態を紹介している。

スギ科は、杉太(スギタ)、動杉(ウゴキスギ)、杉平(スギヘイ)、高杉太(タカスギタ)、杉子(スギコ)、大杉(ダイスギ)の6匹の他にスギ科のなかまとして、堀川大杉(ホリカワダイスギ)、角杉(カクスギ)、杉ステージ、すぎっちょん、小杉(コスギ)、日本杉(ニホンスギ)、杉車(スギシャ)なども登場している。

その他、宮崎県日向市に生息しているソトアカリ科に分類されている「杉あかり」、マチ科に分類されている「二本杉」「止め杉」などもいる。

よくよく見れば、この時点でナグモカツシのスギダラ度は、かなりのものなのがわかる。

2001年の「ON-HOT展」で、大杉(ダイスギ)を発表して以来、2002年の「イスコレ商店街」、2003年の「PDの思想展」にも杉のプロダクトを発表していることを考えれば、ナグモカツシのスギダラ活動は、7年目に突入しようとしている。

今年のはじめ頃、happiの飲み会の席で、ナグモカツシが「もうデザイナーは辞めようかなあ」と冗談とも本気ともいえる発言をポツリとしたことがある。ナグモカツシのデザインのスタンスが岐路に立っているのだろうということは想像ができた。スギダラ活動を含めた地方の街づくりの中で、ナグモカツシは、デザイナーの仕事を越えた、プロデューサーやコーディネーターとも違う独特の仕事のスタイルをきづいていったのだろう。

そんなナグモカツシの活動をみていると、「21世紀のデザインとは何か」という問いをたててみたくなる。

2007年7月7日におこなわれた「アートフェスタ タキカワ」のデザイン会議。
五十嵐威暢さんによって問題提起されているのは、
「デザインの地域格差の是正」「マーケットよりのデザインへの危機感」
そして、「デザインの志の必要」。

この会議で、ナグモカツシは、パネリストとして発言している。
http://www.act-takikawa.or.jp/calendar/artfesta2007/index.htm

スギダラの活動が、今後のデザインのあるべき方向性のひとつを示していることは、間違いない。ナグモカツシは、間違いなく、日本のデザインの最先端を走っている。

2007年8月4日に、多摩センターのグリーンワイズでおこなわれた「グリーンフォーラム」の第3回でナグモカツシが登場。ナグモカツシが現在住んでいる地域に近いところでのトークイベントははじめてだと言う。ぼくは、そのコーディネーターとして参加していた。

このフォーラムは、「木と生活のデザイン」をテーマに、多摩地域でできることを模索する試みである。スギダラの活動は、多摩の人にとっても、刺激的な内容だったと思う。会場には、スギダラ本部の協力で、ナグモカツシデザインの屋台や家具も持ち込まれ、にぎやかなものになった。
http://www.greenwise.co.jp/event/pr04.html

現在の時刻、午前4時48分。

かみさんがおきだして、米を研いでいる。きっと、娘のおべんとうをつくるのだろう。

ぼくは、このグリーンフォーラムで、
この3年間でナグモカツシに何があったのかを聞き出そうとしていた。

スギダラの活動の本質は何なのか?
ナグモカツシは、何をやろうとしているのか?

ナグモカツシの発言から、ぼくの中での答えを探した。
しかし、その答えは見つからなかった。

どうしてこの3年間、ナグモカツシはこれほどまでにスギダラ活動をしなくては、ならなかったのか。何がそこまでの原動力になったのか。

ナグモカツシの気になる発言は、ふたつ。

「多摩地域の人は、そこそこの生活でとくにこまっていないから。地方には、本当にこまっている人たちがいるんだよね。ぼくは、その人たちをなんとかしたい」

「実は、ぼくは、そんなに杉が好きというわけじゃないんだよね。こんなこというと誤解されるけど。たまたま、杉を例に話をすると、誰でもわかりやすくて、日本の問題点が浮き彫りにされると思うんだ」

正確にナグモカツシが言った通りじゃないけど、たぶん、こんなような発言だったと思う。
もしかしたら、スギダラから自由になり、さらにその先に踏み入ろうとしているようにもみえるナグモカツシ。夢の中で山に向かっていたのは、そういうことだったのだろうか。

これからも、ナグモカツシのデザインの意志と力に期待したい。

現在の時刻、午前5時11分。

ひとまず寝ますおやすみなさい。

 
 

●<はぎわら・しゅう> 9坪ハウス/スミレアオイハウス住人。

 



   
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