連載
  続・つれづれ杉話 (隔月刊) 第7回 「手仕事ありきの着物」
文/写真 長町美和子
  杉について、モノづくりについて、デザインについて、日常の中で感じたモロモロを語るエッセイ。 
 
今月の一枚
  ※話の内容に関係なく適当な写真をアップするという身勝手なコーナーです。
  暑中お見舞い申し上げます。
入谷の朝顔市で買ってきた朝顔は、最初のうちは大輪が咲いたものの、だんだんしょぼくなってきて、写真のような見事なヤツは後にも先にも一度きり。
なんかお祭りで買ってきた金魚がすぐに弱ってしまう、とか、学校の校門脇で売ってたヒヨコがすぐに可愛くないニワトリになっちゃう(それは当然だ)とか、そんなダマされたような気分がするのはどうしてだ。
   
 
朝顔
 
朝顔
   
 
   
  手仕事ありきの着物
   
 

中途半端な歳なので、しばらくおめでたい席から遠ざかっていたが、今年は2回も結婚披露宴に出席する機会があった。一人はお世話になった人のご子息の、一人は同い年の友人の。巷では「コンカツ」なる妙な言葉が流れているが、実際、結婚ブームであるようで、式には呼ばれなかったけれど、大学時代の友人も春にハワイで式を挙げ、それを伝えてくれた別の友人のお姉さんも今月、なんと10歳以上も年下の彼と(!)ゴールインしたという。経済が盛り上がってイケイケの時には、自分の人生を一人で謳歌する人が多かったような気がするが、社会に不安感が増してくると共に生きてくれるパートナーが欲しくなるのかもしれない。ともあれ、幸せなカップルの笑顔を見られるのはうれしいことである。

で、中途半端な歳なので、こうした席に出席するとなると何を着て行ったらいいものか大いに悩む。安いパーティドレスでごまかせるような若さはないし、それなりのフォーマルはそれなりのお値段がする。だいたい買ったところで二度と着ないだろうし、ヒールの高いパンプスも履かないだろう。それで、思い切って着物を着ていくことにした。

一つめの式は5月だったし、かなり前から出席が決まっていたので、母親から譲り受けた縮緬の色無地を染め直し、母に仕立て直してもらうことができた。袷(あわせ)の時期だから、帯も小物も母親のお下がりで大丈夫。1ヵ月前から必死で着付けの練習をして、当日はどうにか一人でお太鼓を結んで出かけることができた。

ところがその後すぐに「7月に式を挙げます」と友人から招待状が届き、さてどうしようか、と再び悩むことに。着物のカレンダーでは7月8月の盛夏の時期は、薄く透ける絽(ろ)や紗(しゃ)の夏物を着るしきたりになっていて、5月に着た縮緬の色無地は着られない。うーむ困った。洋服にすれば涼しいのはわかっている。真夏に着物を着るのは相当つらい。涼しげに透けて見えても当人は汗だくである。高いお金をかけて仕立てた着物が1回着ただけで汗で変色してしまうことを想像したら、とても買う勇気が出ない。1年のうちほんの数ヶ月しか着ない夏物はとてもぜいたくなものなのだ。

でも、最終的に、清水の舞台から3度飛び降りた気分で紗の付下げと絽の袋帯をそろえた。もちろん新品ではなくて、中古の着物をネットショップで買ったのだ。のちのち着ることを考えればね、と自分に必死で言い訳しながら。

ふー、前置きが長くなったが、ここからが本題。中古ということは、前の持ち主の体格に合わせて仕立てられている、ということだ。ネットでは着丈と裄丈、袖丈などが記されていて、着丈145センチなんて書いてあると、あぁかなり昔の人の着物だな、とか思うわけ(着丈というのは身長とイコールなので)。標準サイズとは言い難い背の高さである私の場合、寸法を簡単に直せるかどうか、というのがいちばんのチェックポイントになってくる。以前『鯨尺の法則』(ラトルズ刊)で、「反物の幅はほぼ同じ」と書いたけれど、反物の長さはけっこうまちまちで、縫い代の取り方もまちまちなので、ほどいて丈を出すにしても限りがあったりするのだ。できるだけ背が高く、手の長い人で、色柄の趣味が合う人が着物を売りに出しているのを見つけるのは至難の業。着物自体は素晴らしいけど、裄丈(首の中心から手首まで)がまったく合わないとか、着丈に余裕がないとか、一長一短で、これは、と思うものを見つけても、ちょっと迷っているうちに売れてしまっていたり……。

そんなこんなで、ようやく着丈160センチで「9センチ分長く出せる」と注釈がついた着物を手に入れることができた。裄も68センチあるのが涙の出るほどありがたい。着丈を出す仕事はそんなに大変じゃないので、再び母親に頼み込んで直してもらうことに。しかし、襦袢まで全部仕立ててもらうだけの時間はなかったし、そこまでしてもらうのも気が引けたので、思い切って自分で仕立てることにしたのだ!!! といっても、身ごろだけの「うそつき」と呼ばれる半襦袢を買ってきて、それに自分で仕立てた袖を付け、裾よけを縫うだけ。もちろん、買ってしまえばそんな苦労をしなくてもいいのだが、着物と帯を買ってスッテンテンのところに襦袢や肌着まで買う余裕はない。

この際だから、と絽の反物をネットオークションで安く買い、和裁の教科書を実家から持ち出し、雑誌やブログで「素人でも簡単、襦袢の縫い方」なんてのを探し、原稿そっちのけでひたすら研究に邁進。家にある洋裁用の針では太すぎるので、和裁用の絹針と糸も買い込んで、ちくちくちくちくちくちくちくちく……ひたすら縫いましたよ。裁断図を自分で引いて。くけ縫いとか覚えたりして。

そんな体験をして思ったのは、着物を着ることと手仕事はつきものだ、ということ。半襟を付けるのも、肌着の脇をちょっとほどいて身体のラインに沿いやすく調整するのもそうだけど、着る人は針と糸を持てることを前提にして成り立っている世界なのだ。雑誌やブログを見ていると、小物の用意から着付けまで、着物好きは驚くほどいろんな工夫をしていることがわかる。教科書に書かれていることをそのまま守ってる人なんか少数派。「夏は暑いから帯枕の代わりにヘチマを使ってます」とか、「洋服地を買ってきてミシンで替え袖つくっちゃいました」とか、「帯揚げ、自分で染めてみました」とか、それはそれは楽しい手仕事&オリジナルの技の世界が広がっているのである。

幅40センチ弱、長さ12〜13メートルほどの一枚の布から、いろんな人の身体に合わせて仕立てられる着物。何度もほどかれて、別の人のものになっていく着物。ちょっと寸法が合わなくても、着方次第でけっこうごまかしが効いたりする着物。それは非常に奥の深い、面白いものだった。なんていうのか、ユザワヤで安い生地を買ってスカートを手作りするのとはちょっと質の違う興奮だった。

調子づいた私は、着古したTシャツの襟ぐりを裁ち落として縁をかがって汗取り用の肌着をつくり、腰ひもを半分に切って半襦袢に付け、長すぎる帯揚げを真ん中の見えないところで短く縫い止め……と、ありとあらゆることを試し、披露宴までの日々を楽しんだ(手仕事に明け暮れる日々は、ラジオがいい友達だった)。それに平行して初挑戦となる袋帯の二重太鼓の締め方も練習しながら。

これまで、何かを着る喜びなんてあまり感じたことがなかったけれど、着物は絶対クセになる。お金ないのに……。いや、貧乏だからこそ、工夫する楽しさを知ることができたのかもしれない。きっかけをくれた友人に感謝しないと。

   
   
  おまけ
最近は、縫製を海外に出して安く仕立てるところが多い、ということを、今回初めて知った。「国内一級和裁士」と「海外縫製」では価格がぜんぜん違ってくる。しかし、繭や生糸のほとんどが輸入であることは知っていたが、縫子さんまで外国人になっているとは……日本の着物はほんとにこれでいいんだろうか。
   
   
   
   
  ●<ながまち・みわこ> ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。
雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。
建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。
特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり。
   
 
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