連載
  スギダラな一生/第27笑 自分の行方 「社会と繋がるということ」
文/ 若杉浩一
  自分の存在を確認出来る何か、そしてそれを分ち合える事
 

今年は、なんだか、さっぱり夏を感じない。雨は多いし湿気が高い、気温もいまいちだ。天草の夏は暑い、しかも強烈に暑い。事実、去年は焼き付くように暑かった。僕は昨年の夏は2度、実家に帰った。その時も本当に暑かった。「焼き焦がれる」ような暑さなのだ。もうこれくらいになると暑さに諦めがつく。「え〜い、どうにでもしやがれ」って感じなのだ。そして、一転して、その夜のヒンヤリ感と静けさと、真っ暗な夜がたまらない。朝露の静寂の朝から、焼き焦がれる太陽が現れる、その変貌ぶりが、僕は好きである。
海の匂い、焼け焦がれる太陽に干した魚の匂いが混じっている。草の匂い、土の匂い、そして川の冷たい空気と水辺の匂い。様々な色やテクスチュア、光と、沢山の感覚を呼び起こすのである。そして、自分の感性が開いていく、もっと沢山の事を感じて生きていく事を教えられる。田舎はいい、自分の根源がある。

昨年の夏は僕にとって様々な事を教えられた年だった。昨年の7月だっただろうか、田舎から突然の電話があり、母親が車から放り出されて事故にあったと、父から連絡が入った。親父はひどく憔悴していた。「おれん、車に乗とって、ドアがちゃんと閉じとらんかったったい、カーブで車から放り出してしもうた。今病院で見てもろたバッテン、右肩が複雑骨折しとるごたる。あいた〜、おれんせいばい。」いつも、無意味に明るい親父は今までに無いぐらい声が細かった。
「他は、大丈夫な?」
「怪我しとる、ばってん。幸い、大丈夫と思う」
「不幸中の幸いやったね、しっかりせんかな、お父さん」
暫くして、妹から連絡が入った
「お母さんが事故バイ、大丈夫やろか?、お父さんもショックば、受け取るし・・・」
「おら、直ぐには行けんばってんが、後で行くけんが、お前先に天草に行ってくれんか?」
「解った」

そして、暫くして天草に帰った妹から連絡があった。
「お母さんの肩は、バラバラばい。もう手術もできんらしい、しばらく再生の目処が立たん限りダメらしい。痛み止めも、効かんで毎日苦しんどる、夜も眠れんばい、私は一緒に寝る事しかできん」
一週間ほど妹は病院に滞在し電話をかけてきた。「兄ちゃん、あんた早く天草に行って。お母さんが、もう仕事ができんちゅ、言って、痛さと悲しさでお母さん大変になっとる。」

母は、天草で美容室を経営していた。勉強家で、いつも新しい美容技術を学んでいた。僕はよく母に「こんな田舎で、そげん都会の技術ば学んでも使い道はなかバイ」と冷やかしていた。
母は高校時代に父と母を亡くし、大学に進む道を諦め、一人で生きていくために美容師になった。苦労して勉強し、妹達の面倒をみて一人前になった。店を出して、働きながら僕を育てた。僕は、よく放りっぱなしだったので、ラジオの音で育った。そして近所のおばさん達に親代わりで面倒を見てもらった。
仕事が好きで、プライドもあった、なんせ家族の中で一番負けず嫌いで、愛情が深くて、感情丸だしの母親だった。男顔負け、親父の仲間にさえ噛み付く、そして、悲しい時は、恥ずかしげもなく大声で泣く、隠し事が出来ない性格だった。田舎には不釣り合いの最新の設備をいつも備え、いつもお客さんに喜ばれている事が誇りだった。

そんな、母親が、「仕事再起不能状態」なのだ。僕は正直、一人で頑張っても、年は取るし過疎化が進む田舎で、もうゆっくりしてもいいんじゃないかと思っていた。いつも、いくつも慢性の病気を抱え、ボロボロになりながら、僕たちに苦労話をしながら仕事をやっていた。
もう73歳だ、充分やったじゃないか、別に歩けない訳ではない、不自由かもしれないが、生きていける。ゆっくり父と楽しい生活する道だってある、そう思っていた。しかし、現実はそうではなかった、なかなか手術できない自分、痛みが引かない、回復の目処が立たない、仕事再起不能宣言に母は壊れていった。
極度の鬱になっていった。前から感情の起伏が激しかったので、家族は心配していた。それが現実になってしまった。親父は大変だった、そして、心優しい妹も大変だった。母親の苦悩や感情の流れに身を委ねざるを得ない。全ての言葉と感情の丸裸状態が続くのである。やがて妹も、不甲斐ない僕に当たり始めた。優しさが苦悩の連鎖を生んでいく。僕はそんな中、天草に帰った。正直びっくりした、確かに歳はとっていたが、いつも気丈で、明るく若々しい母は、すっかり老け込んでいた。そして、何回も同じ話しを繰り返し、泣き、悲しみ、そして笑う。僕は毎日病院のベッドサイドで母と、父とともに、動かない時間を過ごした。
この動かない時間は、家族の絆を壊していった。バラバラになり始めた。僕は「なんにも、できないこと、聞くしかできないこと、そして、壊れないように、平静を装うことしかできいこと。」を思い知った。
しかし、事態は進む、もはや母は眠れなくなり朦朧状態が進み、危うくなってきた。あの母の面影は既になかった、何故に人はこんなにも、心がそうさせてしまうのかと思った。
そして一年が過ぎ、父の必死の介護と支えで奇跡が起きた。再起不能の母は少しではあるが、手が動くようになり、仕事をささやかに出来るようになった。主治医は「奇跡だとしか言えない」と言った。

母からの「泣き電話」は昔の母の電話に少しずつ戻った。
「浩一〜元気しとっとか〜〜。今日はあんたば、生んだ日ばい、心配ばっかりさせてから、あんた、ちーった大人にならんば〜。」僕の誕生日の電話、ようやく、いつもに戻ったと思った。

人は何をもって、生きようとするのか? お金ではない、そして異性でもないかもしれない、地位でもない、名誉でもない。極端な言い方をすると、家族ですらないのかもしれない。だれもが、やがて年を取り、時間が過ぎていく中でなくなっていく。生きている本当の証それは、社会とのつながりなのかもしれない。
自分が役に立っている、そして社会に活かされているということ、生き合っていること、その喜びは何事にもかえられない。自分の存在を確認出来る何か、そしてそれを分ち合える事、ささやかな日常事でもいい、それを体の中心に持ち得ていることこそ自分の行方になるのかもしれない。

母は、今、一日一人程度のお客さんのために店を開けている。それは社会との繋がりだった。一人では生きていけない弱々しい存在だった。そして自分という行く末が、社会の何に繋がっているのか、何処に繋がっているのか、生きるという探索を続けなければならない。
先日、あれからほぼ、一年もの間、電話の一本も交わさなくなってしまった、妹の旦那のお見舞いにいった。僕は会うや否や、昔のように相変わらず、妹を茶化した。この瞬間から止まっていた時間がまた動き出した。

私がいなければ、僕がいなければという繋がりと、思い込み、そして喜び。スギダラには、「自分という行く末」を探り合い、そして高め合う仲間が沢山いる。それはやがて、新しい関係性と素晴らしい社会へと繋がっているような気がしてならない。本来の仕事、組織、そして社会って、そんな繋がりをもっていた筈だ。たしかに経済活動がなければ生きていいけない。しかし経済だけでは人は生きられない、生きることは、死に行く事につながっている。一人では生きていけない、弱々しい自分を認め、次の世代に受け渡すためのデザイン「社会との繋がり」が必要な時期がきているように思える。
もう、新しい時代が訪れようとしているのだ。

新しい繋がりを求めてスギダラは、今年は更なる転機がこの秋に日南で起こる。
多くの仲間が自分の行く末を求めて新しい世界に踏み込んでいく。
楽しみでしょうがない。

日南の沢山の仲間に敬意を表して。

   
 
  はじめまして、毎回楽しく挿絵を描かせていただいている下妻です。若杉さんの挿絵は今回で4回目になります。今回はかなりシリアスな内容でしたので、お母さんが復活して、また美容室が始められるようになった光の部分を抽出し描きました。お母さんがとても微笑ましく「いらっしゃい」と言ってるところです。
みんなに愛されるような挿絵を描いていきたいと思います。宜しくお願いします。
   
   
 
   
   
  お知らせ
 
  収録が終わって、KIKIさん(左)、小山薫堂さん(右)に囲まれ、記念撮影。収録スタジオに「杉太」や「イカ杉」も持ち込みました。
  9/7(月)〜9/11(金)の一週間、21:50〜22:00の時間で若杉さんがJ-WAVEに出演しました!
番組は小山薫堂さん、KIKIさんのナビゲートによる、TOKYO SMART DRIVER 「SHARE SMILE」。
J-WAVEのホームページでは、若杉さんの話した内容が紹介されていますので、(しかも、収録時の写真つき!)こちらもチェックしてみてください。
http://www.j-wave.co.jp/original/sharesmile/
   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
   
 
Copyright(C) 2005 GEKKAN SUGI all rights reserved