連載
  スギダラな一生/第30笑 「豊かさと貧しさ」
文/ 若杉浩一
  社会活動、コミュニティー、そして経済の関係性
 
新年になって、始めての原稿になる。また、随分間が空いてしまった。前年の杉関連の盛り上りと、そして、各地域での仕込みや、動きを見るとまたまた、今年も既に、激しいことになりそうである。当社も、農林水産大臣から国産材の利用を促進したとして、感謝状を頂いた。つい最近まで、「杉で遊んでいる連中」と後ろ指を指され、会社の景気が悪い時には真っ先にバッシングされた、それが、こんなことになり、突然、会社の社会活動なんてことになり、「日本の文化を新しくデザインしている」なんていうことになるのである。
もっとも、こっちも、企業を如何に巻き込めるかという厄介な苦しみの末に、何か新しい関係性の豊かさが存在するに違いないと思っているので、責める気もないのだが、この豹変振りには些かびっくりである。
しかし明らかに、ここ一年かそこらで、風の流れが変わった気がするのである。
   
  さて今回は杉コレで、篠原修先生がお話しになったこと、そして、僕が「みやこんじょうだん」で、まとめとして原稿を書いたこと、そして偶然というか、必然というか、南雲さんが話していたことが、何か繋がっているのではないかと、思っていることをお話ししたいと思う。
   
  僕は、企業人でありインハウスデザイナーである。それが、半分冗談で、南雲さんとスギダラを始めた。本当にいつものダジャレから始まったようなもんである。そして、やがてそれは、日向と繋がることになり、やがて宮崎の皆とは切っても切れない間柄になってしまった。よく、色々な方から「何で内田洋行なんだ? 何か商売があるのか? 営業か?」と聞かれることが多かった。
僕はその度に「この関係性の中から新しいものが生まれる、つまり新しい開発行為として来ています。まちづくりや地域開発に地元と行政だけじゃ出来ない何かがある、それを担う役割として、将来、企業が関わり新しい価値や産業を成立させる時期が来ると思うんです。」と話していた。
概ね半信半疑なのだが、そういうふうに言わないと成立しないのである。この成立しない何かがに、実は大きな意味と未来が、隠されているようでしょうがない。 
   
  杉コレの2次審査のセミナーで篠原先生がこう仰った。「最近、貧しさ、ということを調べているんです。そして解った事があります、先ず貧乏になるとお金が無くなります、それは誰でも解りますね、しかし、それから、付き合いが無くなる、つまり人がいなくなる、そして、社会から切り離されて行くんです。つまり、最も貧しいのはお金がないと、コミュニティーから切り離されるということが本当に貧しいことなのです。」 実はこのことに興味を持たれ、調べるきっかけになり、大きな何かを突きつけたのが、南雲勝志であり、秋田の窓山デザイン会議だったのである。限界集落である窓山をデザインで救えるか?
この問いかけに、篠原先生はこう仰っていた。「正直、僕は、この問いに答える自信がありません、何故なら、景観デザインは何かをつくることが前提にあり、何もつくらず救うこと、いやそれより、関わることさえ出来ません、南雲の依頼に断ろうと思たんですが、ここへ来て、大いに考えさせられました。」
それをきっかけ、色々調べられたそうだ。そして先週南雲さんが、篠原先生のセミナーを、聞いて感動したことを、教えてくれたのだった。それは、「南雲から窓山をデザインで救えるか?との問いかけに、何の答えも出せなかった、何故なら、デザインは作ることで、経済があるから、成立している。しかし、ここには何も無い、デザインは何も出来ないじゃないかと。経済がないと全ての関係が無くなる、しかし本当に貧しいのはこの土地ではなく、僕らじゃないか?この地に集まること、語ること、考えること、仲間になること、そういう仕掛けがデザインで出来ることのもう一つの力だった。そう思うのです。」
僕は、この話しを聞いて、心が震えた。そして、スギダラを通じて解ったこと、そして最近書いた「みやこんじょうだん」の記事のこと、何か合点がいった感じがしたのであった。
   
  スギダラは杉が好きなのか? いや大して、好きではない。確かに専門家もいるが、むやみに杉を使う集団でもない、とにかく木材業界とは縁遠いメンバーばかりなのである。そして、ちっとも経済で結ばれていない。
なんせ、盛り上がる、そして語り合う、そして酒を飲み、踊る。全く意味不明な集団ではないか。これで「壷」でも売ろうもんなら未だ合点が行くが、強要するのはダジャレぐらいで、何の制約も無い。上下関係も、権力構造も、利権も無い。従って、平等で、自由で真っすぐ進む力を持っている。
   
  しかし、経済社会はそうはいかない。企業は、概ね経済を軸とした宗教のようなものである。多少怪しくても、きわどくても、正義が無くても誰も文句は言わない、曲がって当たり前なのだ。企業の生きる意味は経済しかないからである。経済にとって意味の無いものは排除されるのだ。 我が社でも昔は、社員旅行があり、花見があり、運動会があり、クリスマスパーティーがあった。しかし、今、全てがなくなった。繋がりより経済が重要だからだろうか。経済に関係が薄いものは、存在する資格が無いのだ。 なんだか世知辛いなあと思われるかもしれない、しかし、自分の胸に手を当てて考えると結構そういうチームや組織に翻弄されているのではなかろうか? だからこそ、経済に何も関係のない社会活動なんてもっての他、そんなことに現をぬかしたり、楽しんでいることこそ、意味不明なのである。僕らはそんな中で、社会と切り離され、地域を捨て、山林や、田畑を捨てた、そして古里さえ捨てようとしている。本当の、経済のみの、貧しい人達になってしまった。
   
  経済的にも、自然環境も厳しい高千穂の秋元で夜神楽を見た。この地に共にすみ、一年に一度の夜神楽のために、身を捧げる。それは、観光でもなければ、経済活動でもない、この地で自然とともに、共に生きることを豊かにするための知恵であった。お金はなくとも、ともに豊かに生きて行く知恵と感謝と繋がりがあった。僕はこの夜神楽を見て、本当に魂が揺さぶられた。心の中に潜んでいた血や、記憶や、大切なもの、表現不可能なのだが、「何か」が溢れ出るような気がしたのだ。ほんとに、来てよかった、心底そう思った。
  ぼくは、故郷を捨て、自分の親や、先祖が育てた、山林を捨てた。そして、デザイナーだの、何だのと言って、一緒前の格好をして東京で働いている。しかし、思えばそれが、どこかで気になっていた。本当に豊かなんだろうか?
   
  そんな僕とほとんど、同じ境遇を持つ南雲さんと始めた活動は、やがて、意味不明に色々な地域の人々と接し、大切な何かを教えてもらいながら、それをただ、殆どデザインもせず、愚直に表現することに変わって行った。
もはやデザイナーとすら言えないことばかりやっている。(飲み方が殆どですが)。
それが、沢山の人達に迎え入れられ、人が繋がり、1000人を超える輪になり、各地で素晴らしいことが沸き起こっている。
   
 

最近思うのだが、僕たちは、知らず知らずの間に、杉を単なる木材としてしか見なくなったのかもしれない。
杉が待っていた様々な関係性や意味を捨て、物質としての木材を経済としてのみ取り扱ってしまった。そんなことをすりゃ自分の首を絞め苦しくもなる。
よく考えれば、ほんとは、自分たちがそうしてしまったのだ。

   
  僕らが、杉を通じて感じた事、それは杉を思い、地域を思い、地域を豊かにしようとしている人たち。杉を通じた営みや、文化、技や魂。山や海、畑や田んぼの風景、そして街並。かつてあった地域の豊かな暮らし、そして地域に根ざした交通。自然に感謝すること、そして仲間と共に生きるということ、全てが繋がっていた。しかし経済主導のなかで、僕らは杉とともに、その「何か」を置いてきぼりにしてしまったのだ。
社会活動、コミュニティー、そして経済。それは、正反対のものではなく、ともに存在すべき代物ではなかろうか?僕らはそれが結び合う新しい関係と豊かさを創り、次に渡して行く義務と使命がある。
   
  スギダラ、それは、杉を通じて「何か」感じている仲間達である。僕はこの活動の延長に新しい豊かさが待っていることを信じている。
   
  今年も、益々すごいことになりそうだ。
   
   
 
  こんにちは、下妻です。期間がだいぶ開きました。すみません。挿絵再開です。
今回はタイトルの『豊かさと貧しさ』を象徴している高千穂の夜神楽の場面を選びました。若杉さんの魂が揺さぶられてます。
   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
『スギダラ家奮闘記』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm
   
 
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