特集 月刊『杉』WEB版 5周年記念
  杉とのおつきあい

文/写真 武田光史

 
 月刊『杉』の5周年号に原稿の依頼があった。名誉なことではあるが、いささか困った。今更で恐縮だが、正直言って、それほど深く杉とつきあっていないし、「杉が好きか」と問われれば「いいえ〜」と答えてしまいそうだ。それは僕の師匠が篠原一男という抽象的建築の巨匠だったことにも原因の一端がある。ミニマリズムの始祖や教祖的な建築家であり、外観も内観もほとんど白一色の、禁欲的でシンプル極まりない幾何学的な空間を設計していた。そんな訳で、13年間の修行中、プラスターボードにペンキ仕上げなど、素材感や情緒的なニュアンスなど全くない、ディテールを消し去った空間と向き合っていた。
   手探りで具体的な素材に興味を持ち始めたのは、1985年に35歳で大学を退職して、カリマンタン(ボルネオ)へ農村開発の仕事に出かけてからだ。ジャカルタやスラバヤの都市難民(スラムの住民)を未開のジャングル(カリマンタン、スマトラ、イリアンジャヤ)へ移住させるプロジェクトだった。赤道直下の街サマリンダで暮らし、母なる大河マハカムを遡ってジャングルの村々を訪れて、僕の体内の建築家としてのアクは大量の汗とともに流れ出てしまった。毒気が抜けすぎて、帰国後は建築以外の仕事を探しながら、フリーターをやっていた。建築の世界に何の未練もなければ、デザインでは困窮した人達を救えない、とも思っていた。バブル絶頂期の時代、ポストモダンの新奇な形態を競い合う建築やデザインの世界にリアリティを見いだせなかったこともある。
 
  サマリンダ
 
  マハカム
 
  ジャングルの村
   
   そんな僕に「40歳近くにもなるのに、真っ当な仕事をしないのはいけない」と声をかけ、設計の仕事まで紹介してくれた友人がいた。その時設計したのが能登半島の「七尾の住宅」である。横長連窓とピロティという近代建築のステレオタイプの建築言語を使いながら、極めてアジア的な風情の建物だった。
 
  七尾の住宅
   
   少しずつではあるが、素朴な物や素材とも素直につきあい始めた。それでも、本格的な杉とのつきあいは、もっともっと、後になる。経験の少ない駆け出しの建築家に依頼される仕事は、都市部の小住宅がほとんどだ。そんな敷地には「延焼の恐れ」という見えない線が、1階で隣地から3m、2階では5m離れたところに引かれている。その範囲は燃えない材料で建築しなければならない。間口が10mある敷地は今日の東京などでは豪邸とは言わないまでも、大変高価な土地である。それでも隣地から3mずつ取ると1階の残りは4m、5m取ると2階は「線」しか残らない。間口10mの土地を買って、間口4mしかない純木造の平屋建て住宅を依頼する酔狂なクライアントなぞ、いるはずがない。つまり、外壁に木材を使った小建築は都市では建たない、のである。
 
   転機は1992年に長野県の小諸に住宅の設計をしたことからだった。山の中にある女性画家のアトリエ兼住宅である。山間部の地形にリンクした屋根型を持っていて、外壁の一部を地元産の杉材の縦羽目仕上げにした。しかし主役の外壁材はガルバリウム鋼板の波板であって、杉は背景的な扱いだった。恐る恐る手探りで使い始めたわけである。
 
  小諸の住宅
   
 

 大々的に使ったのは1997年の熊本の「ふれあいセンターいずみ」が最初だ。くまもとアートポリス参加事業であり、しかも林業の村の建物なので、杉材の有効利用が命題でもあった。村のランドマーク的な大規模木造建築として、構造のメインフレームから外壁までトコトン熊本産の杉材を使い尽くした、と書きたいのだが、残念ながらそうではない。問題は大断面の集成材の梁だった。当時熊本県内に集成材の加工所は無かった。一番近い宮崎の工場に熊本から木材(ラミナー)を送り、加工後現場へ輸送すると、非現実的なコストになる。しかも九州の杉はヤング率が低いので、材積が嵩むことになり、これもコストを押し上げる。ましてや工程を減らし安くするために宮崎の杉を使うなど論外である。そこで比較的小断面でいける柱や頬杖状の柱は120×240の杉材を2丁合わせにして、240角の合成柱とした。ところで、大断面集成材の梁の話にもどると、まったく不本意ながら「米マツ」を採用することにした。ヤング率が高くて立米単価も国産材より安いのだから、慈善事業でもない限り勝負にならない。そこで、集成材は全て天井裏に収まるように設計した。つまり、表に出るのをご遠慮いただいた訳である。まぁ〜、パソコンでも全てマック純正だと高くつきましたよねぇ・・・

 
  ふれあいセンターいずみ
   
   その後、1999年の尾鈴山蒸留所や2001年の黒木本店貯蔵庫、2004年の浜名湖花博の主催者庭園前休憩所群などで、積極的に杉材を使って来た。
 
  園芸博覧会
   
   最近では2008年の黒木邸がある。月刊杉22号に書かせていただいたが、高鍋の黒木さんは人一倍、地元のものにこだわっている。母上の住宅を増改築するにあたり、宮崎産の木材を是非使いたいということで、工務店がいろんな方面を調べた。そうすると、県南に『H銘木』なる存在を知ることになった。あえて所在地や店名を出さないのには訳がある。未亡人がスタッフ2名と運営している銘木屋で、無造作に点在する倉庫に時価数10〜100億円はするであろう、膨大な量の霧島杉や綾のケヤキやカヤなどの原木が蓄積されている。うっかりその存在が知れると危険なことになる、と思うのだ。亡くなったご主人の父親の先々代社長が豪腕で買い集め、数十年間、倉庫で眠っている木材からは、大きな安心感と豊饒感が醸し出されている。鈍感な僕でも木が発する力を、厭というほど感じてしまう。僕も黒木さんもスッカリ惚れ込んでしまった。1枚の板幅900mmの霧島杉を框戸に仕立てて引き戸を作り、和室などの天井には県央の市房山の杉や綾の栂などを使った。もちろん高価な素材だが、これも普通の杉を使い続けたご褒美だ、と思っている。黒木さんだって、母親の家という名目があるので使えるが自宅だったら躊躇する、と漏らし、大工さんも生涯で2度とこんな材料を刻むことはないだろう、と高揚している。
 
  黒木邸
   
   さて、冗長な原稿はそろそろ終わりにしたい。僕は杉にこだわって来たつもりはないし、空気のように自然に使ってきた、という訳でもない。月刊『杉』に何度か原稿を書くという機会でもない限り、杉のことなど改めて意識することも考えることも無かっただろう。ただ、杉との「距離感」は確実に変わった。石やタイルやガラスなど素材の一つではなく、「ていねいに向き合う価値とリスクのある素材」となった。それがこの25年間の僕の意識の変化だ。そして、社会や経済や環境の「パラメーター」としての杉の意味を教えられた、スギダラの5年間でもあった。
   
   
   
   
  ●<たけだ・こうじ> 武田光史建築デザイン事務所
   
 
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