連載
  続・つれづれ杉話 (隔月刊) 第15回 「木遣と花火」
文/写真 長町美和子
  杉について、モノづくりについて、デザインについて、日常の中で感じたモロモロを語るエッセイ。 
 
今月の一枚
  ※話の内容に関係なく適当な写真をアップするという身勝手なコーナーです。
  取材で出かけた小千谷市片貝町の浅原神社境内にて。
樽じゃありません。これ、三尺玉の花火を打ち上げる筒なのです。芯持ち材を台形に削って、回りを竹のタガで締めて、長さ4メートルほどの筒をつくって(写真では底が浅いように見えますが、これはたぶん花火の玉を置く台としての中底だと思います)地面に穴を掘って立て、ドーンと打ち上げる、と。打ち上げた後はバラして、翌年また使うまで角材を川に投げ込んでおいたそうです。もっと小さな5寸玉なんかを上げる筒は、丸太を半分に割って中をくり抜き、合わせてタガで締めたんですって。でもそれは昔の話。今は下の写真のように、土管みたいな鉄製の筒で上げています。
   
 
  木製の花火筒
 
  鉄製の花火筒
   
 
   
  木遣りと花火
   
  ……というわけで、9月、花火を見に新潟まで行ってきました(正確には花火の玉皮の取材だったのですが、それは12月号の『翼の王国』で書いてるので、そちらをご覧いただけるとうれしいです)。
   
  片貝まつりは、日本各地で行われる花火大会と違って、町の神社のお祭りとして、町の人が主体となって一つ一つ花火をつくり、打ち上げるのです(個人やグループで花火をオーダーして、出来上がった花火を神社に奉納する)。二日にわたって行われるお祭りの行事一覧を見ると、神社の境内で行われる相撲大会とか、花火筒を引いて練り歩く「筒引き」、花火の玉を輿に載せて神社に運ぶ「玉送り」、「花火太鼓」「祭り屋台の引き回し」と400年の歴史を感じさせる儀式がずらりと並んでいてワクワク!
   
  夜の花火だけじゃなく「真昼の三尺玉」というのもあるんですよ。そこで、久しぶりに耳にしたのが木遣り(きやり)歌。木遣りと言えば、材木を扱う木場の男衆が力仕事の時に歌う仕事歌だと思っていたので、こんなところで(山を背景に田んぼが広がる懐かしい町で、抜けるような青空を見上げて花火を待っていたのです)聞くとは意外な気持ちでした。木遣りが聞こえる風景のイメージとしては、深川、木場、川に浮く丸太、パッチに半纏、雪駄履きのいなせな鳶職……そんなところだと思っていたので。
   
  大好きで何度も読み返している、森田誠吾の『魚河岸ものがたり』(新潮文庫)は、今、移転問題で揺れている東京・築地のまちを舞台にした人情物語ですが、その中の一説に、父親の代理で商店主の親睦会に出席した若い跡取り息子が、顔見せの芸として何かやれ!と強要されて、木遣りを歌うシーンが出てきます。
   
   
  「よおおおおお…… やあありよう…… やあああれええ……」
念仏にも似たメロディーが思いのほかのボリュームで七郎ののどから溢れ始めると、大広間のざわめきが火の消えるように静まって行くのがわかった。
歌は嫌いではないが聞くだけだった七郎が、せっぱ詰まって開き直り、強いられたコップ酒の酔いにも助けられて、勝鬨橋(かちどきばし)の夕日を思い浮かべながら歌う木やりは、広間いっぱいにこだました。
「ほおうおおお…… こおおれええ…… わああせええ……」
低く降りてゆくかと思えば、また高く登っていき、これっきりの所まで登りつめると、急速にまた低みに向かって行く。
木やりの文句は、わけがわからないが、素朴なことには間違いない。
今日も、吾妻先生が、素朴でういういしいのがいいと言ったっけ。気取らずに覚えたままに歌うのだ。
  (「勝鬨橋」より抜粋)
   
   
  文中、「念仏にも似た」とありますが、たしかに祈りの声とも受け取れるような、張りのある男の和声の美しさはグレゴリオ聖歌にも通じる神々しさに満ちていて、胸がつかまれるような感動を覚えます。風に乗って聞こえてきた木遣りに興奮する私を見て、地元で花火の玉皮をつくっている工場の社長さんが「神社のご神木を運ぶ時も木遣りを歌いますよ。花火の玉を奉納する、という意味で歌うんでしょうね」と教えてくれました。
   
  考えてみれば、木遣りは結婚式なんかでも歌われるし、単なる労働歌だったものがどうして祝いの席で歌われるめでたいものになったんだろう? そんなことを思ってちょっと調べたら、「木遣り」という言葉自体が、建築用材にする大木を大勢で力を合わせて引っ張ることを意味しているそうで、お城や神社・仏閣などの大造営の際に音頭を取るために歌われたのが始まりで、「建築=慶事」という発想から、木遣り歌もおめでたいものとしてとらえられるようになったようです。
 
  上の写真の木製花火筒は復刻版で、町の有志が住宅の柱材を供出してつくったそうですが、これも神社に奉納する「筒引き」の際には木遣りで送られたのでしょう。面白いのは、この巨大な筒がソリに載っているところ。9月の祭りの時期に雪が積もってるわけでもないのに、なぜ台車ではなくソリなのか?(やっぱり雪国の発想なのか、と思ったけど、南雲さんどうでしょう?) 地面の上を引きずるのはかなり大変ですよね、と言うと、玉皮の社長は「重くなくちゃダメなんですよ」とおっしゃるのでした。ズリズリと重いものを町のみんなが力を合わせて引く、その手応えがなくちゃダメなんだ、と。それでこそ高揚感があるのだ、と。なんだか諏訪大社の御柱祭を思わせるものがあります。
 
  かつては花火という危険な(だからこそ美しい)ものを命がけで上げる、ということに神事としての意味があったのでしょう。花火の玉をつくるのも、筒をつくるのも、運ぶのも、上げるのも大変なことを地域の人みんなで協力して成し遂げるということ。その思いが玉(=魂)と共に天高く昇り、神様やご先祖さまに伝えられるのです。
 
  夜、空いっぱいに広がる花火を見上げて、首をさすりながら酒を飲みつつ、あぁ、日本の祭りだ……としみじみ思ったのでした。
   
   
   
   
   
  ●<ながまち・みわこ> ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。
雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。
建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。
特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり。
著書に 『鯨尺の法則』 『欲しかったモノ』 『天の虫 天の糸』(いずれもラトルズ刊)がある。
『つれづれ杉話』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_komachi.htm
『新・つれづれ杉話』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_komachi2.htm
恥ずかしながら、ブログをはじめてみました。http://tarazou-zakuro.seesaa.net/
   
 
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