連載
  続・つれづれ杉話 (隔月刊) 第18回 「つくる、繕う」
文/写真 長町美和子
  杉について、モノづくりについて、デザインについて、日常の中で感じたモロモロを語るエッセイ。 
 
今月の一枚
  ※話の内容に関係なく適当な写真をアップするという身勝手なコーナーです。
 
  今年もやってきた漬物の季節。
らっきょうの甘酢漬け、塩らっきょう、青梅のシロップ、完熟南高梅のシロップ、そして梅干しの下漬けまで済ませるとようやくホッと一息です。あとは梅雨明けの土用干しを待つだけ。
今年のらっきょうはいい感じにできました。塩らっきょうのスライスに鰹節をかけて……酒が進みます。
   
 
   
  つくる、繕う
   
   ゴールデンウィークも過ぎて、バーゲンで安く布を買ってから縫い始めたスプリングコート。来年の春先の寒さを思って裏地をつけることを思い立ち、ふつうじゃつまらないから、と桐箱の底にしまい込んでいた着物地を引っ張り出してきた。今は亡き義母がふだん着として着古した(たぶん何度も仕立て直した)絣の着物で、かなり薄くなっていたのをほどいて家で適当に洗い張りしておいたものだ。洗い張りといっても張り板があるわけでもないので、エマールで手洗いしてふつうに糊付けして物干し竿に干し、ピンとなるように洗濯ばさみで重りをいくつかぶらさげただけのこと。もう着物に仕立てるには生地が弱すぎるので、単衣で軽いストールにしようか、バッグの内布にしようか、といろいろ思い巡らせていたのだけれど、コレコレ、これを裏地にしましょう。羽織の裏に凝った昔のおしゃれさんのように、ふだんは見えない裏地にストーリーがあるのはなんとなく楽しい。
   
   それで、ほくほくしながら今度は型紙とにらめっこ。表地はダブル幅だし、今回は挑戦的に(難しいプラモデルを組み立てる少年の心意気である)原型から製図した型紙を使って立体裁断してあるので、どう考えたって着物地の反物の幅とは相性が合わない。むむむむ。ここであきらめてはならぬ。先に接ぎ合わせて広幅にして、そこから自由に裁断していけば簡単なのかもしれないけれど、布に余裕はないし、思い出深い着物地(お義母さんが着ていたのを見てたわけじゃないが)なのだから、できればヘンな形で裁ち落としてしまうことなく、布の隅から隅まで活用したいではないか。
   
   そこで、表は表、裏は裏、とまったく別のものとして考えることにした。裏だけ丈を短くすれば、表地のようにドレープをつける必要もなく、裾回りもさほどいらないだろう。Aラインに合わせなくても、脇の下で屏風畳みにしておけば大丈夫にちがいない。肩と襟ぐりと袖付けラインだけ必用最小限のカットをして、あとは筒袖+貫頭衣の単独裏地ができあがる。これを合体すれば、どーだ! なんとかなるではないか。このクソ暑い最中に来年の春先を思って汗だくの格闘である。……といっても、実はまだ完成していない。なんせ来年の冬が終わるまでにできればいいわけだからね。楽しくて、終わらせてしまうのがもったいなくて、じわじわと作業を進めているのだ(根気があるね、とダンナが横目であきれ顔)。
   
   それはそれでおいといて。次に取り出したるは、学生時代に買って、高さが合わないからと押入にずっとしまってあったソバ殻枕。6月だというのに急に襲ってきた猛暑に対応するべく、夏用のひんやり枕でも買いたいところだが、どうにかしてお金をかけずに乗り切りたい。それで、もう何年も前から、やろうやろうと思いつつ手を付けられなかったことを実行することにした。まず、一昨年の夏に友人の結婚式に出席するために夏用着物の汗取り襦袢を縫った際(これも節約のために自作したのだ)、買ってあった晒しを取り出し、反物の幅そのままに以前の枕の2倍くらいの長さで二つ折りにしてミシンでダーッと袋を縫う。そこにザザッとソバ殻をあけて、袋を閉じて、そのままだと布目が粗くて細かい粉が出てしまうので、もう一枚同じ大きさの袋をまたダーッと縫って2重にした。これでやや低めの枕の出来上がり。ものの10分である。おぉ、数年来の胸のつかえが取れたようなすっきりいい気分。おかげで昨日までの寝苦しさはどこへやら、涼しく熟睡することができたのであった。
   
   イチから新しく材料を揃えておニューのものをつくるのもいいけれど、今あるものをどうにか工夫して自分だけのものをつくるのは楽しい。頭の体操にもなるし、たいしたモノじゃなくても数倍の達成感に満足できることまちがいなし。つくる、直す、手を入れる、いろんな言葉があるけれど、あえて「繕う(つくろう)」という言葉を使いたい。糸へんに「善」と書いて「繕う」。実に味わい深い言葉ではないか。メンテナンスではなく「修繕」「営繕」という言葉を復活させたい。目の前のちょっと弱ったモノに手を入れて、さらに善いモノとして生かすにはどうしたらいいか、考えを巡らせてオリジナルのアイデアを加えていく。解体しながら、それをつくった人の工夫を知る。建築も生活の道具も、日本のモノはすべてつくり直しが効くようにできていたのである。違う見方をすれば、「手を入れることを前提にできていた」ということだ。モノと人の手が非常に近い関係にあるからこそ成り立つデザインである。
   
   いつだったか、宮崎で(日向市駅の近くの店だったかな?)で、木青連の方達といっしょだったと思うのだが、酔いに任せて「日本の未来はどうあって欲しいか」なんて壮大な話をしていた時、私は「つくることが身近にある社会になってほしい」と言った。あのときは、町の中に生産の場があって「誂える」「繕う」がすぐ近くにあって、モノが生産されるシーンを子供達が目にすることができるような社会であれば、それが何で、どうやってできているのか、つくる人がどんな苦労をしているかを知ることができ、モノに対して愛着を持つようになるだろう。大事に手入れをして使うようになるだろう。同時にモノの価値を理解して、適正な対価を支払うことを厭わない世の中になるんじゃないか、そんなことを話したものだが、「つくる」が身近にある社会の効能はそれだけじゃない。
   
   食べるものも着るものも、道具も建築もそうだが、モノがどうやってつくられるかを知っている人は、それがどうしたら壊れるのか、どんな風に扱えば傷まずに長く使えるのかを知っている。いざ壊れたとしても直せる。別の利用方法を思いつくことができる。「つくる」といっても大げさなものじゃなくていいのだ。家庭の中に日曜大工や工作や裁縫や料理や、いろんな「つくる」シーンがあって、誰もが消費者であり、誰もが生産者であるという世の中になれば、つくる人、売る人、使う人の互いの心が通う誠実な製品が増えていくはずだ。
   
   さらに、家庭に四季折々のさまざまな「つくる」「繕う」があることで、かつての日本家屋の縁側や軒下や土間のように、生産のための場が充実してくる。日当たりのいい縁側で編み物をし(お母さんがセーターをほどいて、子供が毛糸玉を巻くとかね)、雑巾を縫い、軒先や軒下に野菜を干し、土間に保存食の瓶や樽を並べ……そういう生産が暮らしの中にあってこそ、はじめて衣・食・住がちゃんと意味を持って一体化するのではないだろうか。理想的には、その地域の作物を生かした生産が暮らしの中にあってほしい。それでこそ、住まいはその地方独特のかたちを持つことができる。そのうえで、風土の中のデザイン、その地域ならではの街並みが生まれるのだと思う。
   
   最初の一歩は、自分の暮らしを「つくる」「繕う」さりげない手仕事から始まるのだ! ケチケチ節約暮らしの中でも気づくことは多いぞ。
   
   
   
   
  ●<ながまち・みわこ> ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。
雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。
建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。
特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり。
著書に 『鯨尺の法則』 『欲しかったモノ』 『天の虫 天の糸』(いずれもラトルズ刊)がある。
『つれづれ杉話』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_komachi.htm
『新・つれづれ杉話』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_komachi2.htm
恥ずかしながら、ブログをはじめてみました。http://tarazou-zakuro.seesaa.net/
   
 
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