連載
  スギダラな一生/第42笑 「いつまでたっても」
文/ 若杉浩一
  デザインチームの番頭、斉藤へ
 
 
  荒くれた日々と、ぎりぎりな毎日、そして尽きない飲みの日々に、いつか、安らぎがくるだろうと、有りもしない妄想に、今日こそはと思い過ごす毎日。楽しくて、感動は続くのだが、まるで、ホッとする感じがない。いい仲間と面白い仕事は増え、何かに向かっている実感はあるが、だんだん自分が何者か不明になる。
   
  自分がこうなのだから、回りはもっと理解不能だろう。お陰で、大切なデザインの仲間をまた、引き離される事になった。僕を入れてこれで7名の所帯に縮小した。しかも殆どが20〜30代の若い仲間、これは20年程前に逆戻りだ。始まりは、同じ世代の4人のデザイナー、そして3人の設計、やはり7人だった。皆、個人商店型の仕事のやり方、人の仕事には、我関せず、減って行く仲間の居残り組、言わば「売れ残り集団」だった。僕はある時に、こんなやり方じゃダメだと思った。なぜなら、人が7人いるという事実だけで、7人分の力が集まっているわけではない。やり方を変えなければ、何も起こらないどころか、やがて、もっと人が減るだけだ。しかし、仲間の殆どが、人との接点が最も苦手な面々だった。僕は暑苦しく語り一緒に時間を過ごし、無理矢理一緒に仕事をした。やがてバラバラだったリズムが少しづつ同期し、音楽になり始めた、いい流れが生まれ、やがて長い時間をかけて人が少しづつ増え始めた。そしてそれは、20年の時間をかけ30名の所帯までになった。
   
  若い血が入り、活気が出始め、動きがダイナミックになってきた。僕らの上流組織ですら動かすようになり、大きなうねりになり始めた。しかしこれが良かったのか悪かったのか、チームは組織の「勢力争い」のようなものに翻弄され始め、やがてチームは二つに分断されてしまった。全く、この事が会社にとって良かったとは未だに思えない。そんな事には全くの無頓着な僕は相も変わらずアウトプットの力と、お客様や外の評価だけを信じ、美旗を掲げ進みまくった。なぜなら、今までがそのやり方で巧くいったからだ。やればやる程、未知なる領域が見え始め、何かが変わる、そして、そこには素晴らしい出来事と、仲間がいた。しかし、そこへ登れば登る程、何かを剥がされはじめた。気づいたら、それはチームの沢山の仲間だった。
   
  僕の独りよがりの欲が、皆をバラバラにしてしまった。なんてコトをしてしまったのだろう。しかし、そんな事とは裏腹に、相も変わらず、僕は、バラバラになった仲間と、よく集まり、語り飲み、何かにつけ団体戦を行う。
組織という枠を超え連携し、人を巻き込み、騒ぎ、感動する。だが、そこには、チーム、組織としての形のある、後ろ盾は全くない。あるのは、形のない心の中の繋がりだけだ。
いよいよ、意味不明な集団になってきた。見える「つながり」が、見えない「つながり」より確からしい感覚がある。そして見えない「つながり」は、離れれば離れる程、実は広がって行くということになる。何か、そのような感覚が体の中にあるのだ。
しかし一方で頭の中で「何やってんだ、何をやりたかったんだ、真実に向かえば向かう程、仲間が不幸になる。そこまでする価値が有るのか?」と言う言葉が繰り返される。「いつまでたっても、不安と孤独」
   
  先日、僕は師匠「鈴木恵三親分」と南雲さんと、一緒に5年ぶりに会った。以前、僕が書いた鈴木さんの記事を読んで、喜んでくれ、お酒でも飲みながら、楽しい時間を過ごそうということになったのだ。本当に楽しみだった、人と会うのがこんなにドキドキするなんて、たとえ親兄弟ですら、そうそうない。
僕はその日、鈴木さんのお店「BC工房」に行った。しかし、鈴木さんはもうお店に直接行った後だった。スタッフが、「今日、鈴木さんは、本当に若杉さん達と会う事を随分楽しみにしていました。」と伝えてくれた。僕たちだってそうだ、嬉しいのだが、久々に会う親分に、果して今の自分に、誇れるものがあるのかと考えると、恥ずかしい感じすらある。しかしそんなどうしようもない心配や恥ずかしさなんて何も存在しなかった。僕らは、永い間の時間がまるで無かったかのように、昨日も会っていたかのように話が続いていた。あのときから時間が繋がっていたのだ。しかも、鈴木さんは、当時より若々しく見えた。
   
  「鈴木さん、若返っているじゃないですか〜」
「南雲さんと若杉さんだって、同じですよ」
「いやいや、僕たちはそれなりに年を取りましたよ。どうしたらそんなに、若くなるんですか?」
「え〜〜? そうね〜 危ない事ばかりやっているし、安心出来ない事ばかりなので歳をとる暇がないのかな?」
  南雲さん:「なるほどね、確かにね。おまけに僕らはお金もとれないんですよ〜本当に。なんだか、売れるようなものに興味がなくなっちゃった。僕がやらなくても良いんじゃないかって思うんですよ。僕がやれることは、これだと思うと、お金にならない、もはや、やっていることがデザイナーなのかどうか、すら危ういですよ。」
  若杉:「本当にそうですね。色々な地域を鞄ぶら下げて土日で回って旅役者のような感じですね。新しい事をやればやるほど、価値はあるけど、お金にならないお金になるようになるときには、またお金にならない事ばかりやっているって感じですよね〜。だから、たまには、お金になる事もやったら、と南雲さんに言うんですが、全くやらないんですよ。」
南雲:「そんな事が出来たら苦労しないよ〜」
鈴木さん:「相変わらずだね〜。だけどね、未来につながる新しい事をやろうとすればするほど、そして仲間を創りたいと思えば思うほど、儲けなきゃダメだ。夢や希望も大切だけど、その裏にあることもちゃんとやれなきゃダメなんだよ。そうじゃないと、仲間も養えない、楽しい事も出来なくなる、それじゃダメだ。もっと儲けて、カッコ良くなるんだよ、そうすりゃ、そうしたいと思う仲間がもっと増える。若杉さんだって、企業をもっと喜ばせろ、儲けさせて、良い思いをさせて、もっと好きな事を堂々とやれるようになれ。相反する二つをやんなきゃいけないんだよ。どっちかだけじゃダメなんだよ。」
   
  僕らはドキッとした。解ってはいるけど誤摩化してきた事かもしれないし、蓋をしてきた事かもしれない。またしても、何時ものようにズバッとやられた。
「流石親分!いつまでたっても、凄い!」なんだか、こんなことがとても嬉しかった。
鈴木さんは、僕らのデザインした「飫肥杉プロジェクト」のカタログを見ながら、目を細め、「凄く、いいね! 流石だね! 嬉しいね!」と褒めてくれた。
たったこれほどのことだが、肩の力が抜けるぐらい嬉しい、ぐっときて、何かが込み上げてくる。
横たわる沢山の時間と思いは、僅かな時間と少しのお酒とちょっとの会話で全てが繋がった気がした。
「まだまだ、まだまだ、いつまでたっても。」
   
  たった3人でやり始めた、デザインチームの番頭、斉藤。僕がデザインを首になり、夜な夜な東京から鎌倉に戻り、仕事としては全く認知されない、様々なデザインに対して、共に夜を徹し、休みをも使い、一言の文句や愚痴も言わず、意味不明な野望と夢に付き合ってくれた。文具から家具へ転身し、そしてシステム製品に熱中し、外部のデザイナーと難易度の高い仕事をし、国産材の活用、教育分野への進出、情報システムのデザイン、事業開発、全ての数々の転換を身を投じ、完璧で揺るぎのない品質で僕を支えてくれた。25年ほどの歳月の全てを一緒に見てきた大切な仲間と離れる事になった。
   
  彼は「これから、お金を稼がなきゃいけない、事業を立ち上げなきゃ行けいけないときに、こんな事になって、僕は心配です。また昔のように、夜やってきて手伝いましょうか?」と言ってくれた。
「なーに?心配するな、むしろ、お前の方が心配だ。刺激がなくなって引きこもりになるなよ。」
「それと、今度は、俺が斉藤の手助けをする番だ。何をやるか、決めとけよ、いつでも乗り込んでやるわ!!」
   
  「いつまでたっても、変らない、見えない繋がり。」何処まで行くのか楽しみである。 斉藤!!さあ、これから、またやるぞ!!
   
   
   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
『スギダラ家奮闘記』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm
『スギダラな一生』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm
   
 
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