連載
  スギと文学/その38 『東京をおもう』 谷崎潤一郎 1934年
文/ 石田紀佳
   
 
 
   「思い起こす、大正12年9月1日のことであった」とはじまるこの文は、1923年の関東大震災から11年後に中央公論に連載されたもの。谷崎潤一郎はちょうど箱根に遊んでいるときに地震にあい、数日まえに横浜の自宅に帰った妻と娘を心配する。
病的に地震嫌いであった谷崎は、だから地震のことをよく調べていて、この地震が甚大なものだと直感し(実際よりもひどく考えていた)、東京横浜はほとんど灰燼に帰するだろうと思い、心の中で、妻や子に「あ、そっちにいってはいけない、こっちだこっちだ」と叫ぶ。
しかし、しかしである。文豪は、
「人はどんなに悲しい時でもそれと全く反対な嬉しいことや、明るいことや、滑稽なことを考えるものであるように感じる」といって、妻子の安否を気遣うと同時に「しめた、これで東京がよくなるぞ」という歓喜が湧いてくるの押さえられなかったと書く。
     
   妻子のためには火の勢いが少しでも遅く弱いようにと祈りながら、一方ではまた、「焼けろ焼けろ、みんな焼けちまえ」と思った。  
     
   東京の日本橋出身の谷崎は当時38才。古き日本がすてられて新しき日本になりきれていないカオスの状態をあからさまに見せる東京を憎むほどにきらっていた。
そして熱心な西洋かぶれになっていた。だからこの震災のために中途半端な東京がなくなり、おそらく10年もすれば復興して「ピカピカした新装の鋪道と、自動車の洪水と、幾何学的な美観をもって層々累々とそそり立つブロックと −中略−その時こそは東京の市民は純欧米風の生活をするようになり、男も女も、若い人たちは皆洋服を着るのである。」
これがあの「陰影礼讃」を書いたと同じ人の言葉なのだ。
どうやら、震災にあってほんの一時の避難のつもりで関西にいったことが谷崎をかえたようだ。自分が年をとっていったせいもあるかもしれないと断りながらも、心境がこれほどまでに変わったことに驚いている。
そして10年を経て復興した首都東京の壮麗さは認めるものの、その新しくなった中に残っている古い「東京人の趣味とか気風とかいうものが、どうも昨今の私には溜まらなく鼻につく」ようになった。
 
     
  さて、杉はほんの一字、上方と東京を比較するところに出てくる。
「(東京の)町の光景を何よりも哀れに醜くしているものは、あの外囲いの下見である。上方の借家は、外壁が壁か、でなければ杉の焼き板を縦に張ってあるので、まだ見られるが、東京の下見という奴は立派な家のでも薄汚い。まして安普請になると、あれがカラカラに乾いて、干割れたり膨れ上がったりしていて、見るからに堀立小屋のようである。」
 
     
  この文から15年後、上方を礼讃した谷崎もやがて京都の底冷えに耐えきれず、東京にはもどらないが熱海湯河原へと住いを移す。  
   
   
   
   
  ●<いしだ・のりか> フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著:「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦:http://xusamusi.blog121.fc2.com/
『杉暦』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_nori.htm
『小さな杉暦』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_nori2.htm
ソトコト(エスケープルートという2色刷りページ内)「plants and hands 草木と手仕事」連載中
   
 
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