連載
  スギダラな一生/第47笑 「JAZZという生き方」
文/ 若杉浩一
   
 
 
  昨年から、フェイスブックをやっている。事の始まりは、南雲さんが「若ちゃん。ツイッター、フェイスブック登録しなよ〜〜。」である。それじゃ、ということで取りあえず登録だけした。ところが、その日から頻繁にフェイスブックからメールがやって来るは、友達申請は来るは、こまめに対応していたら休みの半分がなくなってしまった。「こりゃえらいものに、入っちまった〜〜」と思っていたが、これが結構面白い。メールは見るのがいやで、よく南雲さんから「メール見てくれよ〜〜、反応してよ〜〜、せっかく若ちゃんが反応するだろうって駄洒落書いたのに、その内容はね〜〜。」と、メールの説明電話がかかってきていたほどだったが、フェイスブックは、頻繁に見たり、反応している。
最近では、フェイスブック上にプロジェクトルームをつくり、開発の道具として活用したりしているのだが、これが面白い。色々なアイデアや、気になる写真、事例の共有がリアルタイムで進んでいくので、次にメンバーが会うときには既に、意識の共有が進み、お互いの音がすっかりあっている。いわゆるバックステージの盛り上がりというやつだろうか?とにかく、メールやツイッターと違うのは、何か、音が合うというような感覚を持てる事である。なるほど、世界を変える力を持っているだけの事はある。
   
  さて、今回は、そのフェイスブックで巡り会った仲間の話である。西村直人、プロのジャズミュージシャンであり、音楽家、音楽療法士、NPOえほんうた・あそびうた代表理事で、子供、大人を問わず音楽で豊かな、楽しい世界をつくろうとしている。実は西村君は、僕の大学の後輩で、大学のサークル「JAZZ好きもの会」のメンバーで、僕らのバンドでピアノを弾いていた。その仲間に20年ぶりぐらいで出会ったのである。
   
  彼との出会いは、彼が高校3年生、僕が大学2年生の時だった。大学の学園祭の僕らのライブハウスに尋ねてきたのだった。学生服を着た初々しい高校生だった。ピアノやっていますというので、早速彼を入れてジャムセッションをやった。なかなかの腕前だった。そして、翌年の4月に彼は「JAZZ好きもの会」に入る為に、大学に入学してきた。入学と同時に真っ先に入部してきたのだ。大学の入るのではなく「JAZZ好きもの会」に入る為に入学したというのだ。なんと、僕と同じ動機だった。
   
  そもそも僕が「JAZZ好きもの会」を知ったのは、高校生のとき大学を調べているとき九州芸術工科大学という国立の大学があり、そこには音響設計学科という学部があり収録スタジオがありレコーディング等の技術からホールの設計等を学ぶ国内唯一の大学だということを知った。当時JAZZに狂っていた僕は、親の目を盗んで堂々と好きな事をやれると確信した。おまけにここには「JAZZ好きもの会」という、名前からして好き者、いや、ただならぬソウルを感じていた。
両親に、この大学に行くと宣言をしたが、見事に本音を見抜かれ「こん馬鹿息子は、大学行って音楽に狂おうとしとるばい。音楽やらで、飯は食えんとばい、浩一。あんたは、ほんなこつ、自分の人生ば、ちゃんと考えんば〜〜」と一括された。お陰で、僕はあてもなく無理な大学を目指し、あえなく2浪。さすがに親は、意気消沈し、どこでも良いから、大学に入れと良いうムードになってから、ようやく入学したのだった。
   
  今思えば、やはり、JAZZの魂が導いていたのだ。入学試験のときから、僕はすっかりJAZZメンで、母親にパーマをかけてもらいチリチリの髪で、皮のジャケットをきてブーツ姿、当時、崇拝していたウエイン・ショター(テナーサックス)になり切りに入学試験を受けたのだった。アホである、何をもって大学に入ろうとしているのかを、既に、はき違えている。僕のとなりで試験を受けていた当時セーラー服の女子だった、今は同級生の白石女史(現拓殖大デザイン学料准教授)は、僕とは知らず、隣でヤクザが受験していたと皆に語っていた。入学して、僕は、大学の授業は出なかったが、好き者会には最初に入会した。先輩達は実に真面目で、音楽としてのジャズを演奏するのが専らだった。僕は当時楽器も何も弾けなかったが、ギターを持っていたので取りあえずギターを弾きますという事にした。今まで沢山のジャズを聴きあさっていたので、知識、語りではピカイチだった。しかし演奏はダメだったが、あこがれの音に近づけるのが嬉しくて、毎日、アホの様にクラブ活動にいそしんだ。
   
  彼が入ってきた3年の時には、まあそこそこな感じで、雰囲気だけのバンドにはなっていたし、会長にもなっていた。しかし、この会は僕が会長になってからの活動がひどいものになった。確かによく練習はするが、とにかくよく飲みにいく、そして語り合う、そして、朝まで盛り上がる。始終一緒に盛り上がるものだから、だんだん、笑いのつぼや、音、様々なつぼが合ってくるのである。僕は毎日の様に続くこの盛り上がりを大切にしていた。お陰でますます授業に出なくなったが、バンドの結束と、スキルは次第にアップしてきた。
「おい、みんな、ジャズはソウルばい。魂の叫びたい。そげん、幸せな感じから、ソウルな音は出ん!! 悲しさ、つらさ、苦しさ何でもよか!!そげんリアリティーがいるったい。だけんが、俺達、馬鹿にならんといかん、人生失格せんといかんと思う。堕ちてしまわないかん。よかか、飲んでダメになって、女に溺れてダメになれ!!ひゃらひゃらした感じで何がジャズか!!音楽の前の大切な事があるったい、ソウルたい、魂たい!!」と言い放ち、僕は先輩も巻き込み、アホな企画や、飲みを頻繁に催しアホ道を押し進めていた。とにかく、この倶楽部は仲がよくて、バカバカしくて、楽しくて、厚顔無恥だった。色々なところで、ジャズ好きは面白いという話になり、様々なプロや大学との交流が生まれ、色々なところでステージを持つ事が出来た。そんな事をしていると、大してうまくないのだが、音楽がそれなりになっていくものなのだ。
   
  「へたでも、プロに勝つのは、キメの修練だ」というのが僕らのモットーだったので、チームが命だったのだ。そんなチームのピアノとして、入ってきたものだから、真面目でたいしてお酒も飲めない西村君に、飲みだらけの刑にあわせるわ、女難の刑にあわせるわ。
今思えば、ひどいものだった。
「おい、西村お前、これは(小指)おるとか、これたい!!」
「いや、おらんです」
「なんてか?おらんてか!! だけん、音が軽いったい、心にビンビンこんたい、これば(小指)つくれ、そして、溺れろ、ダメになれ。そして好きでたまらんという気持ちと、ダメになる苦しみば知れ!」
「わ、わ、わかりました」
今で言う立派なパワハラである。余計な事ばかり強要していた。
しかし彼はこの先輩のろくでもない言動にいつも真直ぐだった。何の躊躇もなく(あったかもしれませんが)突き進んできた。そんな彼は、僕たちが卒業する時には既にリーダークラスの実力とノリを持ち、その後多くの地元のプロと交流する事になる。好き者会一のプレイヤーとして成長していた。(おそらく、僕らのお陰ではありませんが)
   
  そして卒業し、出会ったのは3年か4年目だろうか?
某有名企業のソフトウエア会社に就職したはずの、西村君に羽田空港でバッタリ会った。彼は、レゲエな奴になっていた。
「何や、お前、そん格好は?」
「はい、会社やめたとです、いま東京でプロとしてやってます。」
「そりゃ、良かったばってん。また、なんでやめたと?生活は大丈夫か?」
「はい。若杉さん、会社で、ですよ、苦労してプログラムつくってですよ、そしてですよ、出来上がったモノを見た時、僕はやめる決心ばしたとです。僕の一年の歳月がですよ、この小ちゃか、基盤の中に入ってると言われてもですよ、見えもせん、感動もせん、誰がつくったかもわからん、悲しかです。もうやめよう、俺はやる事が他にあると、思たとですよ。俺しかできん事が。こん俺が感動もせんことば、やっちゃいかんと、思たとですよ。」
僕は感動した。
「すげ〜な〜〜。西村、頑張れよ!!」
僕はそれぐらいしか声をかけられなかった。その時は僕も自分のデザインを見いだす事に必死で戦っていたからだ。
それから、有名なミュージシャンのバックバンドでやっている事など、時々彼の噂を聞くとこはあったが、それっきりになっていた。
   
  そして今回の出会いがあった。
フェイスブックの西村は、黄色いティシャツにオーバーオールを着て、ウクレレを弾いている。レゲエからウクレレ?心配になった。
「西村、なんばしよっとか?」
「はい、音楽で子供達や、親を元気にするNPOを立ち上げています。音楽療法もやっています。」
元気そうだった、しかし、ジャズはどうしたのか?プロの道は?生活は?と心配だった。とにかく東京にいるので会いたいと思った。
そして、彼のやっていることをブログ等で知り、少しでも何かの役に立てればと思い、色々なメンバーを集め、ミニライブを企画した。本人には喋らず。
そして、色々な、積もる話の後、彼のミニライブをやった。
昔は、どちらかというと、人前であまり喋ったりしないタイプだった。
そんな彼の演奏。
   
  ●カタツムリのツブちゃんの歌
  子供と一緒にカタツムリを見ながら、会話される何事もない会話を歌にしている、その言葉、歌の中に風景が見え、優しさが見え、喜びが見える。
一曲目で、覚醒した。
   
  ●カッパ 谷川俊太郎作
 
  かっぱ/かっぱらった/かっぱ/らっぱ/かっぱらった/とって/ちってた
かっぱ/なっぱかった/かっぱ/なっぱ/いっぱかった/かって/きってくった
  *谷川俊太郎氏の詩に西村君が音楽をつけた歌
  舌をかみそうになるが、言葉遊びと、音楽が会うと何とも楽しい。世代を超え豊かな音楽になっている。こりゃラップだ、カッパラップだ。ノリが出てきた。
   
  ●トウガラシの歌
 
ラテンのリズムで西村君の歌に会わせ、一緒に踊り、リズムをたたき、だんだんアドリブのような自由な感じに広がってくる。
  真っ赤な、真っ赤なトウガラシ〜〜 
一口食べれば!!オウ〜〜
二口食べれば!!オウ〜〜オウ〜〜
三口食べれば!!オウ〜〜オウ〜〜オウ〜〜
四口食べれば!!オウ〜〜オウ〜〜オウ〜〜オウ〜〜
沢山食べれば!!お尻もハートも〜〜ペッパ〜〜〜〜!!
二拍三連が飛出すなど、大人っぽい音楽にきちんとエンターテイメントが盛り込まれている。 もっとやりて〜〜もっと、もっとという感じになる。
もう、西村ワールド突入である。
   
 
    ●おふろばで
  おふろばでの、親子の何気ない会話を歌に、ウクレレの弾き語り。
 
  ねえパパ〜〜パパの一番大事なものって、な〜に?
う〜〜〜んそうだな、一番大切なものは〜〜家族だな。
そうなんだ〜〜僕も学校で兄弟が多いこと、自慢なんだ〜
じゃあパパ〜〜パパの一番うれしかった時って、いつ?
う〜〜〜んそうだな、色々あったけど、あっくんや、ゆうちゃんや、ゆうきくんが生まれた時〜
そうなんだ〜〜僕も自分が生まれた時、一番うれしかった〜〜
ねえパパ〜〜お湯をあたまから〜 かけてちょうだい〜〜
  何気ない歌だが、その場面が浮かび上がり、愛情が溢れ、涙が出る。
難しい音や、言葉や、リズムは存在しないが、心を揺さぶるのである。
僕は、とてもうれしかった。何だ、お前〜〜ジャズやってんじゃね〜〜か〜。
   
  それから、彼と色々話した。
「若杉さん、色々なバンドをやって、色々な音楽をやって夫々に夫々のスタイルや決まりが有るとです。譜面通りにやらんと首になったりするバンドもあるとです。結局ですよ、仲間なんです、チームなんです、良いチームはバックステージの空気が良い、それがステージで凄いとこをしでかすんです。リーダーの力、仲間の力です。」
  「僕は、自分の音ってなんだろうって、ずっと考えとったとです。そんな時、子供と遊びながら、子供ために買った一弦抜けたウクレレで何気なく歌った歌が妙にしっくりしたとです。嫁さんに聞かせたら、絶賛してくれた、子供も喜んだ、僕も嬉しかった。こればい、こればい、と思たとです。」
  「キースジャレットがですよ(ジャズピアニスト)、日本のジャズはジャズというスタイルだけだ。ジャズは自由に心の音を出すことだ。僕はピアノが無くても、二人きりの間で言葉でジャズを演奏できる。と言ったとです。感動しました。ジャズって自由で心が解放された、魂のことだったんですよ。目が覚めました。そして僕は自分の音はこれかもしれんと思って、今やっとるとです。」
   
  「西村すげ〜〜。すげ〜ばい。俺もさ〜〜〜〜、ずっとジャズのようなデザインをやりたいって思った。デザインのジャズメンになるて、決めたときに何かが繋がったとたい。いったいどんなデザインか解らんばってん、心がほっとした、自分が少し見えたとたい。だけん、ずっとそのままでやっとる。お陰でひどい目も合ったし、家族や、後輩に迷惑もかけとる。ばってんがたい、そげんことぐらい、堕ちることぐらい当たり前たい、俺たちジャズやから、ソウルが許さんたい。ソウルのままに生きるって決めたけん、お前も俺も同じアホなジャズを生きとる、というこったい。」
  「そげんでした、大学のときのあの時間がずっと続いとった、今解りました。」
  「俺もたい、俺もたい、今解った。嬉かな〜〜、あ〜〜なってこったい。」
   
  西村も僕も、ジャズというものに憧れ、その音を探り、身を任せてしまった。そこに近づきたいと思い、音だけではなく、全てに近づきたいと思った。あの自由な感じ、お互いの魂が解放され、アドリブが絡み合い、神が降りてくるような高揚感、そして観客との一体感、そして喜び。
その一部で良い、そうなりたい、そこに居たい、そういう音を出してみたい。デザインという静的なものを、様々なプレイヤーとセッションし、あのドライブ感、ライブ感に変えてみたい、そう思ってきた。
ソロもあれば、ビッグバンドも或る、フロントもあれば、バックもある。
ジャズいうデザインをやってみたい、そう思い続けてきた。
   
  西村の活動、そして音楽は、ジャズというジャンルではないかもしれないが、僕は、彼しか奏でられない、彼の魂のジャズだと思う。彼の活動は、音楽を超え、お父さんたちとの活動、被災地の支援、そして医療との関わりと広がり、全てが彼の中から溢れ出す音になっている。
そして、沢山の人を感動させ、共に演じあう見事なバンドになっている。
素晴らしいことだ。
   
  まだまだ、まだまだ、だが、ジャズという生き方の、自分の音を磨いて、近い将来、また、西村とセッションをやれる日を楽しみにしている。
   
  ありがとう!!西村!!
   
 
   
 
 

内田洋行でのミニライブをする西村さん。うたを歌い、3弦ウクレレを弾き、“かっぱの笛”を吹き、踊りも踊るJAZZ MAN。

   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
『スギダラ家奮闘記』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm
『スギダラな一生』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm
   
 
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