連載
  スギダラのほとり(隔月刊)/第3回「熊田原正一棟梁」
文/写真 小野寺 康
   
 
 
  ようやくこの話を書けそうな気がする。
   
  この月刊杉で連載された『油津木橋記』は、宮崎県日南市油津地区を流れる堀川運河に屋根付き木橋「夢見橋」が架橋されるまでの群像劇だが、中でも日南大工・熊田原正一棟梁の存在が際立っている。彼無くしてこの木橋のこの姿はなかったといっていい。
   
  じつは大変残念なことに、今年(平成25年)の1月にご逝去された。
突然、という思いだった。その前年5月の秋田「杉恋」プロジェクトでも元気な姿を見せてくれていたから、秋口に体調が悪く手術されたというお話を聞いたときは、とにかく驚いた。
   
  その年の冬に油津でデザイン会議が開催された時、病を押して顔を見せてくれた。
さすがにお痩せになっていたが、それでも眼の光は十分だったし、
「息子が家を建てているのでぜひ見に来て、意見をいってください」
と仰るので、会議後の懇親会をさておいて、篠原修さん、南雲勝志さんと私でお伺いした。むろん、意見なぞあるわけがなく、飫肥杉(おびすぎ)をふんだんに使ったその住宅は、関東人からすればもはや豪邸といっていい、うらやましい限りのものなのだが、そんなふうにいって招いてくださるお気持ちが嬉しかった。
   
  帰りしなに振り向くと、車のリア・ウィンドウ越しに、家の前で奥様に寄り添われて直立して見送ってくださる熊田原さんの姿があった。それを見て、
「あれならまだ大丈夫だ」
と篠原先生がいわれた時、私もそう思ったし、思いたかった。
しかし、訃報は年明けに届いた。
   
   
   
  油津プロジェクトで一緒に汗をかいてくれた、石屋の井野畑さんが葬儀を取り仕切っているということで、最初の一報は彼からいただいた電話だった。
   
  ここで行かなければ一生後悔すると思ったし、幸いそれは可能だと思ったので、スケジュールをすべてキャンセルして、通夜と本葬に出席することにした。
   
  ありがたいことに、木橋「夢見橋」を協働してくれた、構造エンジニア(空間工学研究所)の岡村仁さんと萩生田秀之さんも同行してくれるという。三人で東京から出向けば、何とか面目が立つかな、なぞと世間くさいことを考えながら宮崎に向かう途上、ふと以前、熊田原さんに質問したことがあったことを思い出した。
   
   
   
  「夢見橋」プロジェクトは、客観的に観ても平成の土木事業の白眉の一片になったという自負はある。しかし、それ以上にこのプロジェクトは、設計家としての自分の人生を変えてくれたものだった。
   
  一度、夢見橋が完成した後の何度目かの酒席で、熊田原さんに尋ねたことがある。東京者の私たちを信頼していいかと思ってくれたのは、いつのことだったのかと。
   
  どんな答えが返ってくるのか、自分では全く察しがつかなかった。いやまだまだですよ、なぞといわれるかもしれないと思いながら聞いたのだったが、答えは、プロジェクト的にはかなり中盤の時期だった。
   
  地場材である飫肥杉(おびすぎ)を使い、金物を一切使わない伝統工法で、しかも地元の職人の手によって造ることを宣言して始まった木橋プロジェクトだったが、出だしは波乱だらけだった。事態は何度も行き詰った。そして、その度ごとに次々と打開してくれたのが熊田原棟梁だった。
   
  彼の活躍が地元で評判となり、やがてその事業の難しさを認識してくれた宮崎県が、本工事に先立って、主要部の試作を業務として発注してくれることになった。それをめでたく熊田原工務店が受注し、一度取りまとめられた設計図を、一年かけて徹底的に見直すことができた。
   
  その顛末は『油津木橋記』にもある程度書いたけれど、要するに「金物を使わない伝統工法」で造ることを決めた夢見橋だったが、設計段階では、仕口が完全に決まらず金物が残っている箇所がいくつかあったのだった。それをこの試作品で詰めに詰め、設計は大きく進化し、最終的には本当に一切の金物がなくなった。
   
  そのプロセスはというと、東京から岡村さんら空間工学研究所がCGとCAD図で提案を出し、それに対して熊田原工務店からは木組みの試作模型が持ち出され、それらを突き合わせて採否を決めるという形で進んだ。
   
  さながらデジタル対アナログ、先進技術vs.伝統工法の格闘技を見ているようで、実にエキサイティングだった。私は何となく進行役として、K-1のジャッジのような気分だった。
勝負は、アナログの伝統工法がやや勝ちぬけた印象がある。
   
  熊田原さんがいうには、東京者の我々を信頼してくれたのはその頃だったという。
   
  実は彼の中には、「設計者は人のいうことを聞かない」という先入観があったそうだ。いや先入観とばかりいえないかも知れないが、確かにこの現場では誰もがフェアで、いいと思えるアイディアはどんどん取り上げられ、設計がぐいぐい進化していった。その実感の中で、初めて我々東京から来た外人部隊を面白い奴らだと思ってくれたようなのだ。
   
  私としては、それを素直に語ってくれた熊田原さんが嬉しかった。
   
   
   
  夕方近くに油津に入り、何とか通夜には間に合った。
ほとんどの方々が焼香を済ませた後だったが、我々も無事に手を合わせることができた。
   
  通夜の後は石屋の井野畑さんが、街なかの寿司屋で食事をお付き合いしてくれた。そこに彼のお兄さんもまた、夢見橋の照明を担当してくれた電気工事会社だったという縁もあり、さらには熊田原さんと最も親しいといっていいのではないかという、森林組合の星衛(ほしえ)さんも来てくれて、その夜は熊田原さんの話で尽きた。
   
  「献杯して静かに飲むところですけどね、ああいう人だから、明るく楽しく送ってあげましょう」という井野畑さんの言葉に、一同頷く。
木橋の苦労話で、げらげらと笑いながら献杯を重ねた。
   
  帰り際に星衛さんが、「俺ぁ、明日の葬式には行かねえ」と言い張った。
辛すぎて行く気がしないのだという。泣きそうな顔をゆがませて無理に笑顔をつくる星衛さんを見て、それもまた一つの見送り方だと思った。
   
   
   
  翌日の本葬も参列者が絶えなかった。
熊田原正一という人の人柄が知れた。
地域のつきあいなのであろう、熊田原工務店のすぐそばに建つ小振りの葬儀場は、明らかに容量が足りなかった。というより、とにかく訪れる人数がただ事ではない。周囲の駐車場も、隙間があればすべて車が詰め込まれる風で、大変な人出だった。
   
  空は、晴れ渡っていた。
きらめくような日差しの下、大勢の黒装束の人々に見守られて熊田原正一さんは送り出された。
   
   
   
  この話はこのまま終わらない。
油津のまちづくりは、今や第二段階に入りつつある。
ハードウェアの整備は一通り目途が付いた。しかし、その結果中心市街地が活性化してきたかというと、残念ながらまだその気配は薄い。
   
  しかし、ようやく人々の意識は変わりつつある。
中心市街地を活性化するための議論が始まり、そこに油津の一連の整備事業に関わってきた東京の「篠原組」デザインチームもメンバーに加えられた。もちろん自分もその中にいる。
   
  油津堀川運河は、街が活性化するために整備されたものだ。使われてナンボである。実際、整備後多くのイベントで使われている夢ひろばだったが、実はとても使いにくい空間だということが明らかになってきた。
   
  それも当然かもしれない。木橋「夢見橋」のある「夢ひろば」は、実は最終形ではない。敷地内の建物が移転するという見込みでデザインされたものが、結局動かなかったために、中途半端な形で留まっているのだ。
   
  特に、交差点付近にある郵便局が動かなかったのが痛い。交差点と水辺の先端をつなぐ意図が、まるで分からないものとなってしまった。その結果、その先に続く中心商店街と水辺の連携は図られないままだ。
   
  最近、日南市が中心となって、この広場をリニューアルする議論が始まった。ここに仮設的に商業施設を誘致して水辺の活性化を図りながら、可能な範囲でデザインを修正するのだ。設計者の自分としてもこの際、最終形にこだわることなく、新たに広場の立て直しを図りたい。住民参加型の議論によってそれを実現するつもりだ。
   
  そんなことが始まりつつある一方で、本年度から、油津の商店街活性化に、「テナントミックス・サポートマネージャー」なる人材が選出された。油津に住み込み、地元に入り込んで商店街の空き店舗を埋めることを掲げて、300人超の応募の中から選ばれたのが、木藤亮太さんだ。
   
  この事業は社会的にも関心が高かったし、自分にとっても他人ごとではなかったから、お会いできる機会を楽しみにしていたのだが、夢ひろばリニューアルのために日南市を訪れたこの夏、早々とそれがかなった。
   
  気さくで気持ちのいい人という評判だったが、本当にその通りだった。
しかも、彼を交えた飲み会の中で、思いもかけぬ人と再会できた。
熊田原正一棟梁のご子息、熊田原敬(たかし)さんだ。例の「豪邸」のオーナーであり、今や熊田原工務店の専務でいずれは二代目社長である。彼を、木藤さんが呼んでくれた。
   
  そのとき初めて知ったのだが、木藤さんと熊田原敬さんは妙に気が合うらしい。しばしば会って酒を飲み、話をしているという。
   
  杯を交わしながら、「夢見橋」の初期段階から、敬さんがお父さんに指示されながら、というか振り回されながら、手伝い続けていたことを初めて知った。そのときはなぜ自分の父がそこまでするのかまるで理解できなかったという。
   
  そんな彼が、いま木藤さんと知己になり、まちづくりの話をしている。
熊田原さんが早逝した後に、木藤さんをきっかけに、父とは異なる道筋から自然に油津のまちづくりに巻き込まれつつある敬さんがそこにいた。
   
  それは、縁(えにし)でもあり、血筋でもあるように思えた。
油津に、熊田原正一さんの意志が、今もつながっているのだ。
   
  この先どんな成果になるかは分からない。しかし、つながっているということ、そのこと自体にすでに意味がある。
   
  油津の夢は、まだ終わらない。
   
   
 
  油津・堀川運河の「夢ひろば」。屋根付き木橋「夢見橋」が、まちと水辺を結ぶ。広場奥の建物2棟のうち、右の郵便局は、広場計画時に移転の話が具体化したが結局動かなかった。広場は、建物がない状態を「最終形」としてデザインされており、今のままでは使いづらい形だ。今年ようやく、今の状態を前提に、広場リニューアルの議論が始まった。
   
   
   
   
   
   
  ●<おのでら・やすし> 都市設計家
小野寺康都市設計事務所 代表 http://www.onodera.co.jp/
月刊杉web単行本『油津(あぶらつ)木橋記』 http://www.m-sugi.com/books/books_ono.htm
   
 
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