連載
  スギダラのほとり(隔月刊)/第6回 「やさしい超人・井上康志」
文/写真 小野寺 康
   
 
 
   宮崎県の日向市駅プロジェクトや油津・堀川運河再生プロジェクトといった、スギダラメンバーが関わった様々な事業についての人間模様は、この月刊杉で何度も取り上げられたが、それらを通して特定の人にのみ焦点を当てられたことはあまりなかったかもしれない。
   この「スギダラのほとり」は本来、単独のヒトに焦点を当てる意図で南雲勝志さんが私に連載を依頼したのだということを、今更ながら気づく機会が最近あった。それが「ほとり」になるか、ど真ん中になるかは自分でも定かではないのだが、ともかく今回はそれに従ってみたいと思う。
   
   井上康志さんである。
   日向市駅プロジェクトはこの月刊杉でさんざん書かれているし、『新・日向市駅』(彰国社)なる熱き(厚き?)本があるから省略するが、鉄道軌道の高架化(連続立体高架事業)と新駅建設、そして駅周辺街区の再編成というこの街づくり事業の仕掛け人は、もちろん日向市の元部長で今は商工会におられる黒木正一さんだ。
   この仕掛けには、高架事業の主体である宮崎県の協力が欠かせない。県側でこれを受け止めてくれたのは、中村康男さん、森山福一さんなどだったが、中でもキーマンだったのは、井上康志さんだと私は思っている。井上さんをはじめとする、彼らのような情熱的な行政マンが幾人もいたことがこの奇跡的なプロジェクトを成功に導いた。
   油津も同様であった。
   私が油津に関わり始めたまさに同年に、それまで日向で尽力されていた藤村直樹さんが、宮崎県油津港湾事務所・所長として赴任された。そのことは油津のプロジェクトを決定づけたといっていい。
   しかし今回の話題の中心である、井上康志さんは、必ずしも日向・油津に担当として直接関わり続けたわけではない。
   だが、そもそも一港湾事業として起工したこの油津プロジェクトは、施工が始まっているにも関わらず、急きょ停止命令が出され、議論の末に歴史的運河再生を基軸とする方向に大きく舵が切られた。極めて異例なその変革点に、井上さんという人の存在は間違いなくあったことを私は疑わないし、少なくとも彼が、このプロジェクトを陰日なたに見守ってくれたからこそ今日の成功があるというのも間違いないと思っている。
   
   その井上さんも、この3月いっぱいでとうとう宮崎県を退職されるという。
   井上さんのことだから、きっとこれからもまちづくりに関わってくれると信じてはいるが、それでも県職員という肩書はもうすぐ切れる。
   井上さん、本当にお疲れ様でした。
    …といいつつ、井上さんが本当に疲れた顔をしているのは、実はほとんど見たことがないのだった。
   
 
 
 

左/真剣な表情で現場を見る井上康志さん。手には使い込まれた一眼レフが。 
右/日向市駅前広場で真剣に話を聞く井上さん

   
   豊かなロマンス・グレーにすらりとした体躯。 高い鼻筋には視界のよさそうな眼鏡が乗り、その奥には意外に大きな眼がいつも何かを凝視している。
   人が何か語りだせば彼は、ひたすら目を見て真剣にうなずいて聞き入る。かと思えば、くだらない冗談に顔をくしゃくしゃにして笑いこける。
   人が何か語りだせば彼は、ひたすら目を見て真剣にうなずいて聞き入る。かと思えば、くだらない冗談に顔をくしゃくしゃにして笑いこける。
   恐ろしく回転する頭脳を持ちながらも彼がそれをひけらかすことは決してない。そして、事業が膠着した状況を打開するときにこそフル稼働するのだが、高性能なモーターのように、稼働音はほとんどしない。問題が山積し、周囲が右往左往する中、ふと黙り込んで考える井上さんの姿がある。そして迅速に計算を終えた井上さんの口から、対応策は静かに語られるのだ。
   そんなシーンを自分は何度も見た。しかも、自分の担当であろうがなかろうが全く関係がないところでも、しばしばそんな光景が目撃されるのだった。
   
  そもそも、井上さんはどんな事業、イベントにも顔を出す。
   北にまちづくりのイベントがあれば、使い込んだ一眼レフを持ってシャッターを切っている姿がある。南にデザイン会議があれば、自慢のロードサイクルを駆使して会場に現れ、黙って傍聴席から議論を眺めている。
   
   いつも冷静そうに見える。
   が、むしろ私は、とんでもない情熱家だと思っている。 誠実で一義な情熱家というのは、むやみに突っ走りがちだが、そういうことは決してない。
   もう時効だと思うが、日向市駅のプロジェクトでJR九州と宮崎県の関係がぎくしゃくした時のこと。事情の些末について記憶が確かではないのだが、はっきり覚えているのは、井上さんが取った交渉術である。
   彼は、宮崎県にはJR九州が協力したいといっているといい、JR九州には宮崎県が乗り気なのでお願いしますと伝え、上手に「お見合い」を成立させてしまった。
   ただの紳士ではない。なかなかの策士なのである。
   
   さらに、行政マンとしては異例のおせっかいである。
   宮崎市内に橘通(たちばなどおり)という大通りがある。
   駅から中心市街地へまっすぐ抜ける文字通りの目抜き通りなのだが、市内を代表する業務街で、金融会社や商社が多い。
   業務街の宿命だが、通りこそシンボルロードとして威風堂々の風情であっても、夕方にはシャッターが次々降りてしまうため殺風景この上なくなる。
   広い歩道の内部には噴水施設もあって建設当時のにぎやかさが伺われるが、人通りが少なければ、やがて噴水も止められてしまうのも当然であり、捨て置かれたも同然の状況が長く続いていた。
   彼は、その噴水に目を付けた。
   社会実験と称して、その噴水施設の上にスギのテラスをデザインしてイベント・ステージにすることを考えたのだ。運営はNPOにゆだね、このステージを使ってミニコンサートやオープンカフェなどを仕掛ければ、地域活性化の契機になる。
   そもそも無駄な施設の有効活用である。問題は費用なのだが、そんな予算は県から出ない。そもそも、やらなくてもいい事業を勝手に起しているのだから当然である。
   井上さんは、製作費を周辺住民や店舗から募れないかと考えた。
   この構想を実現するために、自ら住民参加型のワークショップをプロデュースし、事務局を地元の西田技術開発コンサルタントに頼み、担当には若いスタッフの崎田真央ちゃんを指名した。
   彼女を指名したのには、地元の若い技術者の能力を伸ばすいい機会になるという考えがあったろう。だから真央ちゃんにああだこうだと指示はせず、ワークショップでは彼女の采配を、他人事のように感心した表情でうなずきながら見守り、終わってから最小限のアドバイスをするという調子だった。
   
   そのデザインを私は任されたのだが、実際ワークショップは立派に彼女がリードし、多くの人たちの意見を取り入れて設計案はまとまった。
   「T-テラス」と名付けられたこの施設は、そもそも時限付きの社会実験に過ぎなかった。しかし、結局その期限は延長が重ねられて今でも使われ続けている。
   そんな仕掛けを、井上さんは県内にいくつ仕掛けただろうか。
   
 
  宮崎市内の目抜き通り「橘通り」の噴水施設を改修して造られたT-テラス。プロデュースもデザインも建設も、スギダラメンバーが大勢関わってできた。
   
  一般に官僚というか、お役所の人たちは余計なことをしたがらないものだ。
   なぜなら行政組織というものは、失敗を許さない上に減点制でできている。
   だから、余計なことをやって責任を負うような事態をとにかく嫌う。何もしないで万事をやり過ごそうとする役人のいかに多いことか。
   しかし、そもそもは地域に貢献したいという思いを持って行政の世界に入ったはずなのだ。
   その思いのまま様々な事業に積極的に取り組むも、組織的なしがらみの中でなかなか思うような結果が出せず、もがく人が少なからずいる。
   そうしてそんな情熱も、妥協を強いられ、諦め、叱責されることが重なれば、やがて冷めていくのも仕方のないことかもしれない。
   残念ながら、数多くの公共事業がそんな図式の中で進められている。
   部外者がそれを非難することはできない。余計なことをしなければそれで済む世界であれば、どうしてもそういうふうな流れにならざるを得ないというのが世間というものなのである。
   人は、弱いのだ。
   
   しかし、ほんの一握りだが、そうではない“スーパー行政マン”と呼ぶべき人材が存在する。
   冒頭に述べた黒木正一さんや藤村直樹さんらも間違いなくその中に入る。
   彼らは、地域を良くするのだ、県民市民の幸せのために努力するのだという、本来の情熱を失わない。
   なぜ失わないかというと、結果を創るからである。
   そう、情熱を維持するには、実は技術とセンスがいるのだ。
   自分は、まちづくりで様々な自治体と関わる機会があったが、そんな行政マンが一人いるだけで、組織は、そして事業は大きく運動するものだ。ましてや複数人がそろえば多大な力となる。
   宮崎県がそれであった。(最近、島根県もなかなかであることを知ったのだが、その話はまたいずれ)
   逆に言えば、どんなに素晴らしい理念を持つ事業でも、担当者にやる気のあるものがいなければ決して成功することはない。
   事業とは生ものであり、所詮は人が創り上げるものなのだ。
   
   自分は、都市設計家という職業柄、様々な地方のまちづくりに関わる機会をいただいたが、幸いそんなスーパー行政マン、スーパー役人と出会う機会は少なくなかったように思う。
   スーパー役人には様々なスタイルがあるが、失敗を恐れない猪突猛進タイプというのは、実はあまりいない。
   彼らは確かに、果敢に攻めることを知っているが、失敗してもいいとは決して思っていない。失敗すれば結果にならない、それは不本意とするという考えなのである。
   だから強引に正面突破するばかりが能でないことをよく解っていて、押す・引くの駆け引きが巧みな人が多い。
   井上さんも間違いなくそんな「超人」の一人である。
   常に謙虚で、決して押し出しは強くない。
   しかし、しなやかに怜悧で、決してあきらめない。
   人は――情熱を持った能力者は、強いのだ。
   
   しかも底抜けに優しい。
   一度、肝を冷やしたことがある。
   5年ほど前になるが、宮崎大学の吉武哲信先生(今は九州工業大学教授)が長年通っていた、高千穂の秋元集落に、スギダラ仲間で夜神楽を見に行く機会があった。
   山道を抜けてようやくたどり着いたときはすっかり日も暮れて、すでに来訪者の車が集落の道路の至る所に置かれていた。
   我々の車両もようやく集落のはずれに、一台だけ停められそうなスペースを見つけた。
   すると、同乗していた井上さんが「私が見ますから」といって車外に出てくれ、
   「オーライ、オーライ、ちょっと右に切って」
   と、手招きしつつ少しずつ下がりながら車を誘導してくれたのだが、突然その声と姿が夜の森の闇に掻き消えた。
   崖から落ちた!
   「井上さん!」
   みんなで駆け寄ると、がけ下に倒れた井上さんの姿があった。
   頭でも打てば即死もあり得るほどの高さである。
   苦しげに呻きながら、大丈夫という声は聞こえたが安心できない。
   何とか引き上げて、とにかく病院へ。
   遠ざかるテールランプを見送る私たちの気分はさえなかった。
   やがて夜神楽が始まるも、楽しむ気分からは程遠い雰囲気でぼんやり眺めていたのは私だけでなかったろう。
   だが驚いたのは、病院で応急処置をして井上さんが秋元に戻ってきたことだった。
   少し蒼ざめた表情の下には、三角巾で吊られた左腕があった。
   誰もまさか戻ってくるとは思っていない。
   目を丸くして集まる人たちに向かって、井上さんは無理に笑顔を作りながら、
   「だって、戻ってこないとみんな心配して夜神楽見られないでしょ?」
   というのである。
   井上康志とはそういう人なのであった。
   
 
  腕から三角巾を下げながら夜神楽に戻ってきた井上さん。元気そうだが、周囲は本当に驚いた。
   
   そんな人だから、人望は厚い。
   かつての宮崎県知事が、汚職疑惑で捜査の対象になったことがある。
   まじめに仕事をしていた行政職員にはいい迷惑なのだが、まちづくりの最前線にいたコンサルタントも巻き込んでの騒動はかなりの風圧があったものだ。
   T-テラスで尽力してくれた、西田技術開発コンサルタントの西田靖社長も、有能なだけに地元事業の多くを受注していたため、巻き添えを食って拘留された。
   井上さんも、自身のパソコンを取り上げられた上に同様の憂き目にあった。
   それを聞いた建築家・内藤廣さんは、言下に
   「そうか。じゃあ、みんなで見舞いに行こう。それが友達ってぇもんだ。」
   と言い切った。
   内藤廣さんがそれを発言する速度に、井上さんに対する信頼が表れていた。
   日向プロジェクトが成功した背景には、こういう気持ちのつながりがあるのだと心底思ったものだ。
   
   井上さんは最近、ぼちぼちと全国からまちづくりのシンポジウムなどでお呼びがかかるようになってきているようだ。「宮崎県の井上さん」の時代が終わったら、次に彼はどう動くのだろうか。
   きっと考えていることはあるに違いない。
   今度飲んだら教えてもらおうと思いつつ、なかなかその機会がつくれていない。
   まあ、機会ができても素直に教えてくれるかどうかはわからない。
   いやー、まだまだ決めてませんよ、と大笑いしながら肩を叩かれて終わりということもあり得るのだ。
   実に油断ならない人なのである。
   
 
  日向市の忘年会にて日向プロジェクトの流れを熱く語る井上さん
   
 
  その同窓会の記念写真。下に寝転んでいるのが井上さんと私
   
   
   
   
  ●<おのでら・やすし> 都市設計家
小野寺康都市設計事務所 代表 http://www.onodera.co.jp/
月刊杉web単行本『油津(あぶらつ)木橋記』 http://www.m-sugi.com/books/books_ono.htm
   
 
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