九月杉話

 
「楽しくなければスギダラじゃない」
文・内田みえ
日本全国スギダラケ倶楽部の在り方と可能性
 

 
 

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突然のメールお許しください。
日本を杉だらけにするという企画ですが、ご存知のように、 杉は2月の終わりから、花粉を撒き散らし、多くの人にスギ花粉アレルギーを引き起こしています。
戦後、杉は比較的育てやすいので、杉の植林がたくさんされたということです。
そのために、今はかなり多くの人がスギ花粉によって、アレルギー性鼻炎や結膜炎に悩まされています。
その季節は外出できないほどの重症な人もいます。すぎ花粉の散布は今や社会的に大問題になっています。

ところで、以前NHKのドキュメンタリーでぶなの木が減少していると報道されていました。
ぶなは多くの虫や鳥、その他の生き物を守りそして生き物に対して重要な役割をはたしているそうです。
スギではなく、ぶななどの木をもっと育てる企画はいかがでしょうか。
ご検討ください。
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 先月、このようなメールを読者の方からいただいた。この月刊『杉』を発行している「日本全国スギダラケ倶楽部」(略してスギダラ)に対してのご意見である。このメールを読んで、正直なところ、まだまだ杉自体の存在意義と起こっている問題が一般の人に理解されていないのだなーと寂しく思った。この方に限らず、世の中のほとんどの人は同じように考えているだろう。しかし、思い起こしてみれば、たった数年前まで自分もその1人だった。だからこそ、少しでも杉問題の一助になれば、とスギダラ活動に参加し、月刊『杉』を始めたのだ。月刊『杉』を始めて1年。このメールは、初心に還るいい機会を与えてくれたのかもしれない。そんな経緯で、今月号では、スギダラという団体と活動について書かせていただこうと思う。

 まずは、メールのお答えから。
 初めにスギダラのhp(http://sugidara.jp)にある「スギダラとは?」という項目を読んでいただきたい。
(冒頭の文だけ以下に掲載するので、ぜひ全文をhpで読んで欲しい)

「スギダラとは 「杉だらけ」の略です(略されているのは「け」だけという話もありますが)。
 スギダラプロジェクトを一言で簡単に説明すると、戦後の植林によって杉だらけになってしまった日本の山林をやっかいもの扱いせず、材木としての杉の魅力 をきちんと評価し、産地や加工者、流通、デザイン、販売など杉を取り囲むシステムを結びつけることで、杉をもっと積極的に使っていこうじゃないか! とい う運動です。つまり、これからは山じゃなくて、街や住まいを杉だらけにしていこう! ということです。もちろん、ただダラダラと日本全国杉だらけにするの ではありません。クオリティの高い、愛情のこもった、杉ならではのモノたちを世の中に広く行き渡らせよう、というプロジェクトです。」

そして、以下はスギダラ本部からの返事。

 杉花粉問題の改善は、私たち日本全国スギダラケ倶楽部で取り組んでいるテーマのひとつでもあります。この問題の原因は、まず杉花粉の量が大量であるということと、大気汚染などとの複合汚染によって引き起こされているという理由も挙げられています。つまり、杉花粉自体が悪いのではなく、ここまで大量に杉花粉を発生させ、環境を悪化させた人間自身が招いた問題なのです。今、私たちは歴史を振り返り、反省すると共に、自分たちの出来ることをしていかなければなりません。そのすべきこととは、適切に山林を保全できるように循環させること、つまり間伐したり、木材として使いやすいように枝打ち等の手入れをしていくことです。しかしながら、現在は杉に限らず、国産の木材はコストの影響で使われなくなっており(輸入材のほうが安価だからです)、そういった山の手入れをする財源の確保が難しくなっています。それで、花粉も増える一方なのですね。そこで、スギダラでは、杉の木材としての価値を見直し、より積極的に使っていくことを普及して、本来好ましい状態の山林の循環を取り戻したいと考えています。
 スギダラの目的は、どんどん植林して日本全国スギダラケにしてゆこうと言うことではありません。そもそも既に日本全国スギダラケなわけですから・・・。植えて育ってしまったものをどのように活用してゆこうか? もっと魅力的な使い方はないか? といったことをみんなで考えてゆこう。そういった集まりなんです。[日本全国スギダラケ倶楽部]

 どうだろう。ある程度、スギダラについて、ご理解いただけただろうか?

 いただいたメールにあった、ブナということについては、スギダラは杉だけを考えているわけではないことをお伝えしたい。杉は針葉樹、ブナは広葉樹、植生も木材としての用途も違う。自然環境においても、人間の暮らしにおいてもどちらも大切な樹木なのだ。杉でもブナの活動でも、目指していることはひとつ、日本の環境をよりよくしよう、ということだろう。スギダラは、総合的に環境を考えていく必要をもちろん理解した上で、杉問題に取り組みたいと思っている。例えば、戦後、広葉樹林を伐採して杉を植えてしまったところもあり、そういう無理をした地域は、地滑りや海を汚染するなどの問題が起こっている。そんな場所は杉を植え続けるのではなく、元の植生に戻すことが一番であるはずだ。

 では、なぜ杉なのか?
 それは、杉は日本にしかなく、住から食まで幅広く日本人の暮らしを支え、日本の文化を育んできた樹木である、ということにつきる。中世から長きに渡って杉の植林を行ってきた日本だが、たったこの4、50年、経済や利便性を優先して杉をないがしろにした結果、そのツケが溜まりに溜まって日本をゆがめてしまった。戦後たくさん植林したにも関わらず、安価で扱いやすい輸入材を選んだことで杉は売れなくなり林業は衰退、杉山は放置され環境は悪化、そして花粉症が蔓延・・・。山は杉だらけだ。多くの杉が伐採期を迎えている今、この杉を使っていかなければならない。むやみな伐採が問題となっている南洋材などの問題と、杉の問題は違うのだ。
 そして、自然環境だけでなく、杉に育まれてきた日本人の豊かだった暮らしも失われつつある。ちょっと前まであった風景や町並み、風土に適した心地いい住まい、そこにあった人びとの幸せな表情や信頼関係・・・。それらは杉と共にいつの間にか消え去ろうとしている。そういった当たり前の日本の暮らしを取り戻し、日本の明るい未来を開いていくためには、杉が今おかれている状況をきちんと捉えて向き合い、杉と関わっていくことが必要なのではないか、とスギダラは考えている。今の杉は日本人が捨て去ってしまったものの代表であり、杉問題は日本社会のひずみの象徴ともいえるだろう。だから、杉なのだ。

 今回、改めてスギダラの活動について考えてみた時、ある人が言っていたことを振り返ってみたいと思った。その人は、藁谷豊(わらがい・ゆたか)さんという環境プランナーだ。私が今こうやって杉の普及活動に参加しているのも、自分でも意識しないところで彼の存在が大きく働いていたのかもしれない。環境問題について斜に構え、むしろそういった活動を堅苦しく、上から押しつける感じがして嫌だとさえ思っていた私に、環境を考えることは実はとてもクリエイティブで楽しいことだと彼は教えてくれた。しかし、残念ながら49歳という若さで3年前に亡くなってしまった。これからの日本にどれだけ必要な人だったか……。それを考えると心底悔しくてならないのだが、ここで彼の残した考えや言葉を紹介したいと思う。そこには、環境を考える上でのヒントや、スギダラ活動に参考となることが散りばめられているからだ。
*藁谷豊さんは、2001〜2003年インテリア・マガジン『CONFORT』で連載「環境と素材」を執筆。また、同誌2002年12月号で彼の一連の仕事が紹介されている。

 藁谷さんが、環境問題に取り組む上で、大切にしていたキーワードがいくつかある。「文化」「教育」「楽に楽しく」といった言葉だ。
 まず「文化」について。自然が壊れていくこと、それはその地域の文化が壊れていくことでもある、と。人間と自然の間には共生文化があり、そこにはお金に換算できない価値観もあって両者は成立していたが、貨幣優先の経済によってその価値観と文化が失われ、結果、環境が壊れてしまったのだ。だから環境を改善するには、まずそこにあった文化をよく理解し、貨幣では置き換えられない価値観を取り戻す、もしくは新たな価値観を見出していくことも大事だといっていた。
 では、そういう文化や価値観を伝え、社会を変えていくためにはどうすればいいのか。その手段として、一番早くて効率がいいのは「教育」であると藁谷さんは力説した。教育は数十年かかるから即効性がないと言われるが、そもそも環境問題は数年で解決できるものではない。徐々にしか変えていけない問題だからこそ、発想を転換すれば教育が一番早い方法であると。そして、教育といっても知識の伝達だけでは効果は薄い。頭だけでなく、身体と心にも働きかけるものでないと本当には伝わらないのだ。
 となると、そこに楽しいとかおもしろいといった感覚に訴えるものがなければいけない。してはいけない、とか、こうしなければ、といった無理強いや縛りばかりでは辛く、継続は期待できない。「気楽に」やれて、「楽しい」ことでなければ人の中に残っていかない、と藁谷さんはいっていた。確かにそうだ。義務や苦痛が伴っては人々の中に根付かず、とても続かない。

「文化」「教育」「楽に楽しく」。これをスギダラに照らしてみると、すでに実践し始めていること、目指すこと、これからの在り方と、だいぶ重なり合ってくるように思える。
「文化」。これは、スギダラが大きく心がけ、目指していることでもある。今、杉を悪者扱いする人々は、日本の杉文化を知り得ていないからだろう。安い外国材を選んでしまうのは、貨幣価値だけで判断しているからだ。杉という日本のそして地元の木の存在と背景、使っていく意義、価値、魅力を知れば、価格だけで選ぶことはなくなるだろう。杉の普及には、まず、背景にある文化を理解し、お金だけでない価値観を知らせていくことから始めなければならないのだと思う。そして、そこで大切なのは、ただ昔を懐かしみ、古い暮らしを取り戻すことが目的ではないということだ。現代ならではの方法がなければ、未来はない。スギダラは、杉のあった日本文化を見直すことでそのエッセンスを踏襲し、現代ならではの杉の使い方、価値観を見出して山の活性化につなげ、人々の暮らしに懐かしいと感じられる未来を開いていきたいと考えている。
そして「教育」。スギダラ有志3名が宮崎・日向で行った、杉で屋台をつくるという小学校での課外授業(http://www.sugidara.jp/tomisho/sasshi.htm)は、まさしく教育現場で杉について学ぶ機会をつくり、さらに杉という素材を肌で感じさせ、ものづくりの楽しさをも伝えられた試みだったと思う。関わった者たちは、子ども達がしっかりと何かを受けとめたことを実感した。こういった教育面での普及も、スギダラが展開していきたい活動のひとつだ。
「楽に楽しく」という点は、特にスギダラの大きな特徴といえるだろう。スギダラ会員のほとんどは、ボランティアという意識もないだろうし、義務で参加しているのでもない。ただ、杉という素材に魅力を感じ、杉と関わる中に意義や楽しさと未来への可能性を見出し、自身の出来る範囲で参加しているのだと思う。時にはたいへんなこともあるが、根底に「楽しさ」を感じているから誰に頼まれたわけでもなく自主的に続けているのだ。こういった個人の自主性だけに頼るゆるい関わり方は、甘い、無責任、不真面目、目的がわからない、といった見方も確かにある。しかし、縛りのない自由な活動だからこそ出来ることもきっとたくさんあるに違いない。そこらへんをスギダラは模索している最中でもある。スギダラ自体の在り方が、もしかしたら杉の可能性のひとつであり、新たな杉の価値観になるのかもしれない、と私は思っている。

 

  ●<うちだ・みえ>編集者
インテリア雑誌の編集に携わり、03年フリーランスの編集者に。 建築からインテリア、プロダクトまでさまざまな分野のデザイン、ものづくりに興味を持ち、編集・ライティングを手がけている。
 
 
   
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