ここ数週間、「何かを制作し、それを発表すること」について考え続けている。それはたまたま、本の出版企画を含めて大小さまざまな展覧会企画が自分の周辺にいくつか重なったからなのだが、今日、お台場のノマディック美術館に行って、さらに考え込んでしまった。
あぁ、見た見た、という人もたくさんいると思うけど、建築家の坂茂さんが設計したコンテナと紙管による壮大な仮設空間と、写真家グレゴリー・コルベールの作品との調和、というか、その全体が醸し出すものを体感して、不特定多数の人に何かを感じさせるってのは並大抵のことじゃないんだ、生半可じゃダメなんだ、と改めて思ったのである。
食っていく仕事とは別に、「自分にとって大切な仕事をしたので、その成果を見てください」という発表のスタイルはよくあることで、自分自身でお金を出して、自分が今最大限にやれること、あるいは「やった」と思えることを人に見てもらう、というのは、内容がどうであれ発表しただけの意味はある。たいていの場合は、人に与えるものよりも、発表した本人の方が得るものが多いけれど、それはそれでいい。また次なる自分につながるだろうから。
また、定期的に何かをきちんと外に向けて発表していると、「がんばってるらしいね」と世に知らしめることもできる(内容はどうであれ)。でも、発表しなくてもスゴイことをただ淡々とやっている人もいっぱいいるわけで、表に出すか出さないかは、つまるところはスケベ心があるかないか、なんだろうな、やっぱり。世の中に伝えたい、とか、考えるきっかけをつくろう、とか、新しい提案をしたい、とか、自分自身のステップアップのため、とか、発表の理由づけはどうにでもできるけれど、発表する道を選んだ人の心の奥底を覗いたら、誰にだってそこはかとなく自己顕示欲があるんじゃなかろうか。少なくとも、私の場合は……ちょっぴりある。
いやーそんなの当たり前でしょ、健全でしょ、自分を知ってもらうことで仕事がしやすくなる、それが収入につながるというのはごく当然のことでしょ、まっとうでしょ、と言えないこともない。オトナだからね。霞を食って生きていける、というのは幻想であってご飯は食べなくちゃならない(「霞ってけっこう食えるもんだねー!」とsugio様はときどき冗談めかして言うが)。
要は、そのスケベ心を関知させないほどに、圧倒的な魅力で人の心をわしづかみしてしまうことだ。気迫だ。とにかく「すげぇ」と言わせる。それだけでいい。そこまで行ってしまえば、もうこの展覧会にいくら金がかかっているんだろう、とか、本のスポンサーはどこなんだ、とか、ようするに名前を売りたいだけなのか、とか、そういうバックヤードに潜んでいることはどーでもよくなって、ただ、成し遂げられた仕事の質だけに目が行くものなのだ。グレゴリー・コルベールと坂茂の力を借りて大儲けしている興行主のことも、彼ら自身の自己顕示欲も、制作の元にあるとされる書簡集のいやらしさ(原文はそうじゃないのかもしれない)も、サラッと通り過ぎることができる。そして、ただ、彼らの創作にかけるものすごいエネルギーと、素材や空間や画像が一体となったショーの余韻だけが頭に残る。
そこらへんの「わしづかみ度」が中途半端だと、もろもろが一気に表面化してしまうんだろうなぁ。モノをつくるにしても、イベントをやるにしても、本を出版するにしても。
人の心をわしづかみするには、まず自らの心をわしづかみしなくちゃダメなのだ。自分のスケベ心が爽やかに感じられるくらい、端から見て滑稽なほどに、その対象にのめり込まなくちゃダメなのだ。それが「発表すること」や「発表する自分」に慣れてくると、どうしても「どう発表すれば効果的か」を考えてしまうようになる。ふと気が付くと、やりたかったことからズレてしまって遠くに来ていたり、たいして中身に気持ちが行ってなかったりすることがある(恋愛が終わる時みたいだ)。
自分が本当に前のめりになっているのかどうか、ときには、冷静にチェックしてみることも必要だな、と思った次第です。自分で納得していないことは、人も納得してくれないし、それなら世の中に発表するイミもないしね。ちょっとシビアだけどさ。
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