特集 北山杉 

 

北山杉は京女である!

文/ 高桑  進

 

 
 
 

 大抵の方がそうであるように、北山杉と聞くと三角形の形の樹冠を持ち槍のような姿をした杉が何十本と立ち並ぶポスターを思い出すかもしれない。一本立ちの枝打ちされた細長い幹を持つ杉の姿は絵になる。しかし、これが北山杉と思っていたら実はそれはとんでもない勘違いである。
 京都市右京区中川にある推定樹齢400年の台杉を目にすると、その常識が木っ端みじんである。
 吉野中央木材の石橋さんがつぶやいた一言は忘れられない。
「これは杉なの?」その通りである。
 いきなりここへ連れてこられたら今までの北山杉というイメージは何だったかと頭が混乱するだろう。このような1本の太い幹から数本の細い幹を出している異様な姿をした台杉は、台杉仕立てと呼ばれる京都独特の育林法で育てられた杉であり、これが北山杉と命名されたのである。ということを、私も含めてどれくらいの日本人が知っているのか、知らない方がほとんどであろう。

 普通の家屋の建材としては、秋田杉,吉野杉、天竜杉に代表されるように大径木の杉から作られる。ところが京都の台杉仕立てにすると年輪幅が狭く密のため、細くても強度が出るのである。このような杉を育て始めた理由は、室町時代から京都で始った文化である茶道の場において、茶室等の建築物に用いる垂木と呼ばれる材を大量生産するためであった。京都以外では考えもつかない杉の育て方である。
 まさに、逆転の発想である。
 大きな材を育てようとすれば、当然年輪幅はある程度の幅のものとなる。ところが、台杉のように1本の幹から数十本、いやかっては最大300本もの幹を立ち上げて保育した。そうすると、下の葉がほとんど取り除かれた杉は残っている葉の光合成で材を作り出すわけであるから、言ってみれば虐められて育てられるので否応なく成長は遅れて年輪幅が狭くならざるを得ない。それが、かえって細くても強い杉の材、すなわち垂木に適した材となるわけである。なんとしっかりとした目的を持った杉の保育法ではないか。
 京都の台杉仕立ての北山杉の本当の姿を目にするとまずその姿に驚き、さらに日本人の持つ極めて高度な育林技術に驚嘆させられる。そして、杉は太くて真っすぐな幹で武骨に1本立ちする木である、という素朴な思いが大きな間違いであることに気付かされる。
 例えてみれば、今まではただの女の子が、ある日和服かお洒落なオーダーメイドの洋服を着て少し薄化粧などして目の前に現れた時の驚きに似ているかもしれない。なんだこれは!という驚きである。
 京都の北山杉を女性の変身に譬えたのは、あまり巧い譬えではないにせよ、杉という植物は様々な生育環境に適応する力を持つ植物であることを知って欲しいがためである。ちょうど、日本女性がその生活力や適応力、体力で世界中で高い評価を受けるように、北山杉は京女である、と言える。

 「スギは日本の杉である。そして、日本はスギの日本であった。-----------」という出だしで始る、杉の名著『杉のきた道ー日本人の暮らしを支えて』遠山富太郎著には、板屋根、和船、桶樽を生んだ木の文化の主役について書かれている。その最初の頁には、スギ天然生林として、秋田、杉沢(入善町)、立山、芦生、沖ノ山、天城、魚粱瀬、屋久島が載せられている。天城、魚粱瀬、屋久島は太平洋側、その他は日本海側に位置する。共通点は多雨地域である点だ。杉は雨が降れば降る程生育が早くなる木で、乾燥を好む桧とは対照的である。
 日本は年間平均降雨量は1800ミリ。先進国でもまれに見る地域で、準熱帯多雨林と言える。吉野は年間4000ミリもの雨量を誇る。水は杉のイノチを育てる。成長が大変早いという事は、細胞分裂が盛んであるという事であり、さし木で簡単に増やせるのである。この事実を昔の人は見逃さなかった、というか積極的に利用して来たのである。
 さし木繁殖により500年前から、篤林家により優良個体が選定され多くの品種が成立している。今でも各地の社寺等に現存する千年を超える巨木の多くが、名僧や貴人が、杉の箸、杉の杖、杉の枝をつかい事の成否を占うためにさし付けたことに由来すると言われている。日本は気候的にさし木が容易な暖帯地域なのだ。
 近世になり都市建設、土木工事、火災などからの復興のために必要とされる木材を供給する目的からスギ、ヒノキ等の需要が急増し、各地に林業地が興った。各藩は林業に力を入れ、拡大造林などの政策をとり始め、スギのさし木を命令・指導した。その結果、各藩には多くの篤林家が出た。
 江戸時代に育成された京都北山杉のさし木品種としては「シロスギ」がある。これは、延宝5年(1677)に福岡伊右衛門が作り出したものである。明治以後も多くの篤林家により多数の新品種が作られた。京都北山地方では磨き丸太用のさし木品種として「楳田絞(うめだしぼ)」が、明治26年(1983)頃に楳田市兵衛により偶然に天然のものが発見され、さし木苗で増殖された。一度発見されると、人間雄の目は次々と発見・栽培、そのひとつの品種が天然絞である。生産が間に合わなくなり人工絞が考案された。
 4月6日の一期一会の北山杉ツアーでは藤田林業で多数の台杉を見せていただいたが、全て藤田利幸さんが北山から探し出してきて、ヘリコプターで搬出して育てたものと聞いた。大変な努力である。やはり、北山杉に対する愛着がなければ出来ないと感じた次第である。

 

藤田林業が育成している台杉仕立て。

 

 現在、代表的な品種に、中田源吉の「広河原」、「中源2号」、「中源3号」、中田茂造の「雲外(うんがい)」、岡本喜一の「打合(うちあい)」、西栄太郎の「三五(さんご)」など23品種もあるという。スギの天然絞は87個体も発見されている。一方、実生からも品種を育成・利用しており、京都北山では母樹からの種苗で作り出されたものとしては「神吉(かみよし)スギ」、「味真野(あじまの)スギ」などが知られている。
 結論として、私の個人的な感想を述べたい。今回の北山杉ツアーで発見した事は、ここまで杉の特性を引き出して育ててきた林業家の息の長い努力で、それには驚かざるを得なかった。学校の薄っぺらな知識では到底考えもつかない、自然のスギに対する鋭い観察眼と息の長い選別力とには脱帽である。

   光合成器官であるスギの葉を切り詰め究極の成長を強いて年輪を太らせず、通常の杉なら50センチにはなろうという幹を10センチ程度に抑える事で大変密な年輪を作り出してきた育林法は、まさに園芸好きな国民性に見られる性質ではないだろうか。
 秋田杉、吉野杉、天竜杉とは全く違うやり方で室町時代から続いてきた北山丸太も、どうやら大きな曲がり角にきているようだ。ここらで、新しい利用法を考えていかねば生き残る事はむつかしいだろう。ツアーの最後に急遽加えて頂いた葵工芸は、その意味で新しい方向性、すなわち年輪の詰んだ極めて強度が高い北山杉の性質を最大限に活かした工芸品を生産している。南雲さんが、おおきなため息をつかれた程の世界に通用する北山杉と杉皮で作られたデザイン性の高い椅子は参加者の誰もが欲しくなった程である。これからは、このような付加価値の高いものを作り出す努力が求められていよう。
 もっと世界的にもこの北山杉の美しさ、素晴らしさを広めたいものである。次回は是非、外国人のためのツアーを企画して、英語でしゃべりまくりたいと願うしゃべりすぎ爺でした。(了)

 
極端な枝打ちを行い、木をいじめ成長を抑える。
   
 

葵工芸で作られる杉椅子。北山杉垂木材と杉皮で張られた座面で構成。

 
  熱心に台杉の説明をする"喋りすぎ爺"。(左から二人目)
 
  藤田林業さんの山までは何とトラックの荷台に乗せていただく。左奥の豆のような人物はスギテルさん。



 
  ●<たかくわ・すすむ> 京都女子大学短期大学部 初等教育学科 教授
1948年富山生まれ。趣味:鮎の友釣り。自然観察。
略歴:名古屋大学大学院修了し、学位を取得。アメリカのミズーリ州でポストドクを2年間して、現在の女子大に勤務。既に28年経過。「森の力を信じて」生命環境教育を京都市左京区大原にある自然林「京女の森」で1990年から始めてます。 専門分野: 環境教育、微生物学、生物学
Blog「
京女の森の案内人です.」にて情報発信中! 著書:「京都北山京女の森」ナカニシヤ出版、「環境保全学の理論と実践II」(信山社サイテック )「総合的な学習−演習論」 (建帛社 )その他
 


 
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