特集 日向市のまちづくりと、プロジェクト本「新・日向市駅」発刊!
  宙(そら)に浮く駅舎
文/ 井上康志
 
 

今年の桜は早咲きだったせいか、いつにもまして美しく感じられた。こんなにもじっくりと、そしてこれまでと異なる視点で桜を見たのは初めての経験だった。同じ風景なのに違う感じ方をするようになったのかも知れない。たとえば、満開の桜が咲く様は、空間というキャンバスに絵を描くようにも見える。あるいは、花が開く直前は、指先で触れるだけで“ポン”と音を立てて花が開くのではないかと思うほどだ。いかにも初々しい。やがて花は競うように全体が薄紅色の空間へと変貌していく。

 
 
 
 
     
 
 
 

花は、散るときもまた画になる。ハラハラと散り尽くす様は、思わずじっと見入ってしまう。一気に咲き誇り、一時の栄華を誇らしげに見せた後、惜しげもなく散り行くさまは、ひとりの日本人として、ただただ美しいと感じる。そして桜の花びらは、時として二度目の花を咲かせる。それは、選ばれし時と空間と、そこに居合わせた偶然とが、地面に描かれる絶妙の点描画をさらに際立たせる。

こうした桜の季節を、人々は祝い、祈った。「神が長くそこにとどまるように」と。桜には神が降り立つと信じられてきた。

 
     
 
 
     
 
 
 

スギもまた、注連縄を張って神を祠る。天にまっすぐに向かうその姿は、年月を経るほどに信仰の対象としてふさわしい。

 
 
 
 

スギは日本の文化の外郭を形作ってきたようにも見える。あえていうならば、ここまで日本人に使われながら、愛着もなく放置され、また、見捨てられた材料も珍しかろう。写真は、廃屋ではあるが、港の潮風をいまだに受けつづけ、木はやせ細って筋が浮き上がっている。しかし、そうした厳しい自然条件の中で、建物の形を頑なに守ろうとしているようで、何ともいとおしい。

 
     
     
 
 
     
 
 
 

陰が、その年輪の一本いっぽんを刻む。なでると気持ちよさそうにカタカタと鳴く。軽くて乾いた声だ。年輪は、その数を増すことはやめてしまったが、「俺がこの風景を何十年とみてきたんだぞ」と言わんばかりの迫力も併せ持つ。

 
     
 
 
     
 

時おり、この木は動き回る。泳ぐといってもいいかもしれない。職人は、木の声を聞き取りながら、その曲(くせ)を知り尽くし、さも当然のように居場所を与える。時が過ぎ、住み手を失ってもなお、味わい深い、職人の“意気”を感じる。なんという大胆さ、それでいてなんと繊細なのだろう。

 
     
 
 
 

 

 
 
     
 
 
 

 

 
 

この春、日向の駅前に広場公園が完成を迎える。事業が始まって10年、構想からは数十年。広場には、桜があり、その脇をせせらぎが流れている。そして、芝生は市民の足を止める。
夕暮れが近づくと、ぼんやりとあかりに灯が入る。やがて陽が落ち、だんだんと夕闇が迫る。
すると、突然、駅舎の大屋根が宙(そら)へ舞いだす。ひかりと空間が織り成す短いショータイムだ。見上げる宙(そら)に、美しいスギの木肌の文様が浮かび上がる。周りの空間が、一瞬ではあるが、キュッと引き締まる。息をとめるほど美しい。見る側も、見られる側も、居場所を与えられた心地よさに覆われるのだ。
その感動を味わうために、仲間たちが再び日向に集う。熱い、熱い、春の宵・・・

 

 
   
   
 

●<いのうえ・やすし>

   
 
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