特集宮崎

 
日向市 人がつくる駅そして広場 - 新日向市駅開業レポート
文/写真 小野寺康
 
  □ 晴れた日
予報では雨天のはずだった。
前日の祝賀会の余韻が残る、にぶい頭をふりほどいてホテルをチェックアウトし、足早に駅前広場へ急いだ。宮崎県日向市。人口6万人に満たないこの地方都市に、かつてない駅舎が誕生した。その開業を祝う日は、気持ちの良いほどに予想を裏切り、清々と晴れ渡っていた。
開業式典はもう始まっているはずだった。まあいい、祝いの場に横手から眺められればそれでいいのだ。自身が駅前広場を設計した現場ではあるが、竣工式の気分はいつもそんなものである。設計家の仕事は竣工の前日で、終わる。その日すでに現場は私の「もちもの」ではない。だから居場所がなくてもいい。どうにもそういう職人気質が染み付いている。
とはいえ、やはり竣工式は晴れがましい。手塩にかけた現場で、まちの人たちに喜んで使ってもらえることは、設計者にとっても至福の時なのだ。こういうとき私の設計事務所では総出で出向く。設計に関わっていないスタッフにも、この気分を共有してもらいたい。この実感によってやがて、設計に内実がともなうようになるのだ。
街角を抜けると駅舎が見えてきた。周辺の家並みより抜きん出た高さだ。
新しい日向市駅は橋上駅である。
連続立体構造といって、それまで地上を走っていた軌道が高架上へ持ち上げられ、プラットフォームもそこに並ぶ。普通ならそこにバタフライ・シェッドと呼ばれる、単純なシェルターが乗るだけのところを、軌道敷きまですべて覆い尽くす、大屋根が伽藍のように空中に浮いている。このような大架構は、西欧の駅舎では珍しくないが、日本ではよほどのターミナルでもない限り採用されない。ましてやローカル線が走るだけの地方駅舎に、この豪奢は例外も甚だしい。
大屋根はまた、大断面のガラスのファサードによって支え上げられている。
澄んだ陽射しがガラス・スクリーンから差し込み、プラットフォームにいる人々の姿を浮かび上がらせていた。屋根構造は、地場の杉材を用いた大断面の集成材である。緩やかな曲線をもつ梁材が、ふんわりと軽やな雰囲気を内部空間に与えているのが、外からでも見て取れる。ホームに立つ人々に列車を待っている風情はない。頭上高い天蓋を見上げ、あるいはガラス越しに見晴るかす眺望に表情が輝いている。自分たちが普段見慣れていたはずの街の風景が一変して、高みから一望される様子は、あとで私自身もホームに上ったが、街を見越して背後の山並みや海景が差し迫るように視界に広がってくるものであった。
建築家・内藤廣による、かつてない駅舎が息吹を始めた。

  □ 「私の駅」
式典会場となる、東口駅前広場に出た。
小さな広場だ。開業後は旧の駅舎が撤去され、反対側の西口に、広場公園と一体となった、より大きな駅前広場が整備されることになっている。いずれはこちらが表玄関になるだろう。東口は、サブ玄関の位置づけといっていい。いいはずだった。
ところが――。
思わず立ち止まるほどの人出である。
(どこから集まったんだ、こんなに……)
実に賑やかしい光景が眼前に広がっていた。
広場には、地元の人たちによる手ずからの屋台やテントがずらりと並び、その品々も既往のものはほとんどない。地元の特産品や手作りの食べ物である。新設された大型の木製ベンチはすでに鈴なりだ。イベント用に置かれた椅子やテーブルも満員。ロータリーに仮設された「杉舞台」では、式典後のイベントの準備が急がれている。駅舎キャノピーの下では、高架下に使われる天井材に人々が思い思いのメッセージを書き込んでいる。
開業式典が、天幕の中ですでに始まっている。とにかく、と思って観覧に行くと、ちょうど篠原先生の挨拶だった。十年にわたって、内藤廣さんとともにこのプロジェクトを牽引してきた篠原修教授は、東京大学を退官し、この年から政策研究大学院大学で教鞭を取っている。日向プロジェクトの外人部隊、東京チームの総大将だ。
いわく、鉄道と駅は明治維新以来、西欧から入ってくる文明を東京から地方に配る装置であった。この中央集権のくびきを脱して、この駅舎は地方が独立するシンボルにしようと考えた。耳川(みみがわ)流域の木、つまり「杉」をテーマにまちづくりを進めてきたのはそういう意味なのだ。さらには――。
「この駅は私の駅です」
一瞬会場があっけに取られたが、すぐにこう続いた。
「JRの皆さんは当然だが、日向市の市長さん、あなたも自分の駅だと思っている。思ってもらいたい。私は市民一人一人が、これは私の駅だ、と思えるものであってほしいと願って造りました」
たしかにこの駅は、そんな想いが凝縮されたものになっている。
日向市のまちづくりの特徴は、その徹底した議論の密度にある。市民会話の距離が著しく近く、そして深い。内藤廣さんだけではない。プロダクツ・デザイナーの南雲勝志さんは、仲間である内田洋行の若杉浩一、千代田健一の両名らと一緒に、地元・富高小学校の子供たちに杉を使った体験学習を指導しながら、地域産業の懐にぐいぐい入り込んでいった。彼らはこの「月刊・杉」の主宰者でもあるが、このウェブサイト自体、日向プロジェクトから生まれたといっていい。
私はというと、まちづくりが完全に軌道に乗って、内藤廣さんの駅舎設計がほとんど終わり、駅前広場の諸条件が整えられた段階で呼ばれた新参者である。総仕上げとしての駅前広場と周辺街路の設計を受け持った。

 
 


□ デザイン現場の会話
駅前広場設計に関する篠原修先生からのサジェスションは、広場造形としての柔らかさ、しなやかさ、そして素材の強さであった。
「内藤さんの設計は、力がある。なまじのデザインでは負けてしまうぞ」
勝ち負けのことではない。バランスをいっている。
地域文化をここから発信するのだという、力強くも穏やかなオリジナリティが内藤廣設計の駅舎には表現されている。そのメッセージを継承しながら、交通広場、隣接するイベント緑地、接続する様々な街路を、トータルで空間演出する必要があった。この事業によって、鉄道で分断されていた東地区(海の文化圏)と西地区(山の文化圏)が文字通り結び合わされることになる。東口広場は、海(細島港)への街路軸線が東口駅前広場の形にそのまま飛び込んで一翼となり、その軸線を継承しながらさらに煉瓦の帯が中央コンコースを抜けて、やがて工事が始まる西口広場の保存樹(大銀杏)に到達する。地区が結び合わされた祝祭の造形。地域住民との直接対話から、これらすべての造形はつむぎだされた。
広場の素材の強さを、煉瓦と自然石に求めた。
歩道は全て煉瓦舗装だ。途中で宮崎県産の煉瓦材も検討したのだが、どうにも駅舎とバランスが取れず、最終的には自分の直感に従い、「大地をそのまま焼き上げたような」質感のものを全国から求めた。車道も、駐停車ゾーンを手加工の御影石で敷き詰めた。白線や身障者マークまで自然石だ。
駅舎構造の金属部は、対候性の高い特殊な亜鉛メッキ(燐酸亜鉛処理)だ。いわゆる塗装ではない。杉の集成材とともに、主構造には素材そのものの風合いが空間に立ち上がることになる。これを受けて、南雲さんも照明柱やベンチといったプロダクツに同じ亜鉛仕上げを使い、サインのように塗装する場合は現地の海の色合いにこだわった。駅舎を主景とする総合景観の演出である。
だが、駅舎前面のキャノピーが立ち現れたときは正直ぞっとしたものだ。寺院建築の普請ではあるまいし、過剰ではないかと思うほどの木質が量感をもって広場前面に迫ってきた。予想はしていたが、小さな駅舎のはずが、全くそう見えない。車道に本物の黒御影石を敷き詰めて本当に良かったと思った。
だがそんなデザインも、そのクォリティを左右するのは結局のところ、人である。
日向は人に恵まれてきた。
駅舎及び駅前広場を担当する日向市の担当者連は、間違いなく精鋭である。何より情熱がある。全く妥協のない現場であるにもかかわらず、工事業者や各メーカーもよくこれに応えてくれた。事業をサポートし続けた宮崎県の行政担当者らについても、その目線の高さが日向市や住民と常に同じであった。おそらく現場にたずさわった各人に「自分がやったのだ」という誇らしさがあると思う。
施工現場の会話にその特徴が出ていた。複雑で綿密な打合せにも、「そこまでやる必要があるのか」という会話はついぞ出なかった。またどんな現場でも設計変更は避けられないものだが、そういう場合通常なら、妥協する方向で落ち着こうとするものだ。我々デザイナー側から見れば、そういう瞬間こそデザインを向上させるチャンスといっていいのだが(実はこれがまちづくりの秘訣である)、「それは無理」、「そうする理由がない」と抵抗されることが少なからずある。
日向では、ここでは違った。
「そのほうが良くなりますか?」
他の行政マンが聞けば、この会話のオソロシサが知れようというものだ。
そんなことを思い返しながら、賑わいさざめく広場をそぞろ歩いた。

  □ 大団円の始まり
式典が終わると、午後からは市民の祝い行事だ。広場中央の「杉舞台」で餅撒きや、伝統芸能の「ひょっとこ踊り」、学生のブラスバンド演奏などの催事が始まった。
大勢の人が来てくれたのも驚きだったが、来る人たちがことごとく、にこやかにほころんだ表情をしていたことが印象的だった。きめ細かい市民対話によって積み上げてきたものが、確からしくそこに育まれてきたのだと思った。少なくとも、まちの人々がこの新しい駅を心待ちにしていたのは確かなことだ。
「人口6万人の街にちょっと贅沢すぎますかねえ」
地元商店街の店主がそんなことをいいながら、まぶしそうに駅を見上げた。
「そんなことありませんよ。いいんです。これが、これからの正しい街づくりの姿です」
と返すと、その人は実にうれしそうな顔をされた。
駅舎は完成した。
日向のまちづくりは一つの大きな局面を迎えたといっていい。
だが大団円はまだもう少し先のことだ。西口駅前広場や、周辺街区のまちづくりがようやく始まる。遠い先ではない。もはや手が届く先にある。
だがここからがまた難しい。
慎重に、そして大胆に、さらに対話を進めなければならない。
じつに慶事である。

 
   
  ●〈おのでらやすし〉・小野寺康都市設計事務所・代表、都市設計家 


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