数世代にわたって家業を守り、繁栄させてきた企業の底力やアイデアを「老舗力」と名付け、紹介している人がいる。最近、その人がリポーターを務める番組をテレビで見る機会があって、モノをつくって売っていくことについて、日本人は大昔からこんなにもきちんと(というか、昔の方が今よりずっと真摯に)考えていたのだ、と感心させられた。デザインとは何ぞや、世の中にモノを生み出していく責任とはどのようなものか、ちょうど今、そんな原稿を書いている最中なので、余計ビビッと反応したのかもしれない。
感心した中に、ある近江商人が幼い孫にあてて書き残した家訓があった。「行商先でいかに商いがうまくいったからといって、それを機会により多く儲けようとか、その場所で商いを広げようとか考えてはならない。商いというのは、人様に喜んでいただくことが第一である。いいものをつくり、人様の役に立つ、ただそれだけを考えなさい」。つまり、それを心がけることで自ずと次の商いにつながり、家も発展していく、ということだ。
近江には「三方良し」という経営理念が古くから伝えられている。「売り手良し、買い手良し、世間良し」それが商いを成功させる秘訣である、と。いい言葉じゃありませんか。特に、3番目の「世間良し」をないがしろにしてるから、今の世の中ロクなもんができないんだ! とテレビの前で鼻息荒くうなずいた。
ひとつの物事に関わる人がみんな得をするように、というのは、非常にわかりやすい。売り手はいいモノをつくることで対価を得て、人の役に立った手応えを感じる。買い手は満足できる品物を手にすることができる。そして、世の中は価値のあるモノで満たされ、より豊かになっていく、と。
この「三方良し」を別の角度から見ると、三方ちょっとずつ損をすれば、全体としてはいい方向に行く、と言い換えることもできるのではないだろうか。
売り手は大々的に一気に儲けることを考えず、コストはかかるけれど少なくいいモノをつくり、長く売っていくことでちょっとずつ儲ける。買い手は値段的には高いと思われるものでも、価値のあるものや意味のあるものにはそれなりの金を払い、長く使い続けることできちんと償却していく。世間は、安く早く楽に便利になることだけを求めずに、ちょっと我慢(金銭的な負担、時間的な負担、手間の負担)をすることで、豊かになる社会があると気づく。
それは言うなれば昔の「結い」みたいなもんかもしれない。みんながちょっとずついろんな負担をすることで暮らしを運営する、というのは、実際そうしないと社会システムが成り立たなかったからなのだが、そうすることによって、生産と供給と消費がちょうどいいスピードとバランスで回る循環型社会を保っていたのだ。
ここでやっとスギダラの話に近づいてくるのだが、日本全国スギダラケ倶楽部のキャッチフレーズともなっている「杉とゆく懐かしい未来」というのは、そういうことでもある。杉を活用していた昔の日本の暮らしの本質を見直すことで、未来に通じる可能性を見いだそう、ということだ。
日本固有の素材であり、どこにでもありながら地域ごとに特色のある杉は、日本各地で特有の文化をつくってきたわけで、杉のある暮らし、杉のある風景、杉の感触、杉の匂いは現代人の私たちのDNAに深く刻み込まれている。その国の気候風土に合った素材、そこに生きる人が本能的に愛着を感じる素材をどう生かしていくか。また一方で、乾燥に時間がかかり、柔らかで傷つきやすく、メンテナンスも必要な素材を社会の中でどう受け止めていくか。それはデザインの面からも、モノづくりや流通システム構築の面からも、地場の振興という面からも、教育という面からもいろんな風に語れるはずだ。
花粉症の季節、やっかいものの代表みたいに扱われる杉だが、私たち日本人には、杉が大事に使われてきた時代の手仕事の美しさ、ゆったりとした時間の流れ、社会の暖かさの記憶がまだどこかに残っている。その懐かしい豊かさは、売り手も買い手も世間もちょっとずつ負担し、協力しあう中で育まれたものだった、ということを折に触れて思い出したいものだ。その懐かしい豊かさこそ、未来に求める豊かさだと思うから。
天竜杉ツアーでsugioは「なぜ杉なのか、答えられるようになれ」と申されたそうだが(天竜支部のスギ天ブログを参照のこと)、私は人からスギダラの意義について聞かれたとき、こんなことを話すようにしている。書くのと違って口で説明するのは難しいけどね。 |